どうしてそこにいるの?
どうして傘をささないの?
どうして…?
聞きたいことはたくさんあった。
だけど…
聞くだけ聞いて、その後どうするんだろう、と躊躇われる。
…何も出来なかったら?
余計に涙の傷を増やすだけにも思える。
そう考えるから身動きが取れなくなるのだ。
それでも俺はゆっくりと歩みを進めた。
1年前に出来なかったことを果たすために。
『何も出来ないかもしれない。』
でも
『何か出来るかもしれない』
今踏み出せば、もしかしたら…。
俺と彼女の距離はあと7メートル。
彼女は俺には気付かない。
「ここに…おいでよ。」
「え…?」
俺は彼女に傘を差し出した。
…ようやく絞り出せた言葉だった。
俺の目の前には目を丸くした彼女がいた。
「濡れる…だろ?ってもう濡れてるけど。」
我ながら…もう少し考えてから喋れよ、と思う。
つーかここに来いって…相合傘?
しかも相手はあの『雨音紗衣』
緊張よりも何よりも、自分の計画性のなさに死にたくなる。
「…もう少し…濡れていたいの。」
彼女の視線はまた遠くへと移る。
一度だけ右手で涙を拭って、俺に背を向けた。
「じゃっ…じゃあ…。」
「…?」
彼女はゆっくりと振り返る。
「傘、置いておくから。
帰りはそれ使って。」
「え…?」
「あんま意味ないかもしれねぇけど…。
それでもこの雨の中傘をささずに帰るのは辛いと思うからさ。」
「でもっ…。」
俺は彼女の言葉を遮って傘を木に立て掛け、その場を後にした。
…制服に雨が浸みる。
俺は下駄箱の上に投げたカバンを無理矢理掴んで、そのまま走った。
じわじわと靴下が濡れる、あの嫌な感覚が広がっていくのを感じながら。
* * *
…案の定と言うべきか。
とにかく俺は風邪をひいた。
熱はない…と信じたい。
でも、傘を貸した次の日に俺が休めば、それはそれで気に病むんじゃないかとか、無駄なことをいちいち考えてた。
だから学校に来たとも言える。
「…なんか顔赤い。」
「マジ?そんなに分かる?」
「熱あんの?」
「ないと信じてる。」
「信じるな。今すぐ保健室行け。」
「…行きたくな…。」
「いいから行け。」
…こういう時のユウは少し怖い。
でもその迫力に気圧されて、俺は渋々席を離れた。
朝から保健室行くとか、俺…何しに来たのか分かんねぇ…。
…つーか頭痛ぇ。
そう思って頭を抱えた。
「…っと…やべ。フラフラするんだけど…。」
廊下の壁に手をつく。
この冷たさが心地いいなんて、相当身体が熱い証拠だ。
「霧夕くん。」
不意に後ろから声を掛けられた。
…声で分かる。
彼女から声を掛けてきたのは、生まれて初めてだ。
「あ…雨音…。」
「体調…悪いの?」
「んなことない。だいじょーぶだいじょーぶ。」
「…顔赤いし…フラフラしてる。
保健室行くの?」
「少し休みに行くだけだから。」
「…私も行く。」
「え?」
…今のは幻聴?
だっておかしいだろ?
あの雨音が…保健室の付き添い?
「昨日傘を貸してくれたお礼に。」
そう言った彼女の表情は確かに無表情だった。
だけどその奥には…
あ、もちろん俺の思い違いの可能性大だけれど、少しだけ心配してくれているような気持があるようにも感じた。
…彼女は決して『冷たく』なんかない。
ただ…見せていないだけ。その優しさを、想いを。
もしかしたら、見ようとしていないだけなのかもしれない。
フラフラする俺の右腕が不意に掴まれる。
「え…?」
「危ないから。」
保健室まで、俺たちにそれ以上の会話はなかった。
* * *
「…センセーいな…。」
「私、探してくるよ。」
「あーいいよ。そんなことまでしてくれなくて。雨音は授業に戻んないと。」
「でも…私のせいだから…。」
淡々と紡がれる言葉。
でもその端々に、彼女の想いが見え隠れしている。
…彼女の瞳の奥には…優しさが溢れている。
「違うよ。雨音のせいじゃない。」
「だって昨日…。」
「俺が勝手に気になって、俺が勝手に雨音に傘を押しつけただけだから。
で勝手に風邪ひいた。そんだけ。」
一気に言い過ぎた。
…雨音が少しきょとんとした顔で俺を見つめている。
「そんなに『勝手』なの?霧夕くんって。」
「え?」
反応するのはそこか?とか色々思ったけど、そんなことよりも少し上目遣い(本人は絶対に無自覚)で見られたことに、異常なくらい心臓がドキドキいってる。
…鎮まれよ、心臓。頼むから。
「霧夕くん?」
「あ…ホント、大丈夫だから。雨音は授業行って。」
「私はっ……霧夕くんっ!!」
ぐらっと視界が歪んだのを最後に、俺の意識は途切れた。
* * *
雨の…音…?
「んっ…。」
ぼーっとする頭。
もやもやとした視界。
頭を押さえながら、目に飛び込んでくる光が眩しくて、右目だけを閉じた。
「頭…痛いの?」
「あ…っ…雨音…?」
その声に反応して、俺は両目を開けた。今度はしっかりと。
目の前にいたのは紛れもなく…
「雨音…なんで…。」
「目の前で倒れたから。放っておけなくて。」
「だってもう…って今何時?」
「9時半。丁度1時間くらい寝てたよ。」
「1時間も?」
「顔、やっぱり赤いみたい。
もう少ししたら保健の先生、戻ってくるみたいだから。
もうちょっと休んでた方がいいと思う。
…私、そろそろ戻るね?」
「あ…うん…。」
…なんだか…目が潤んでる?
そう思う間もなく、彼女は俺に背を向け、保健室を後にした。
そして俺はゆっくりと身体を横たえた。
…まさか…1時間ずっとそばにいてくれた…なんてことはないよ…な。
見に来ただけ、だろ。多分。
それに気になるのは…
もしかして…泣いていたんだろうかってことだった。
無理矢理、目を逸らされた。
そんな気がした。
昨日の涙の理由を、俺は知らない。
今の涙の理由を、俺は想像すら出来ない。
「熱出してる場合じゃねぇって…俺…。」
呟きは虚しく消える。
俺は確実に調子に乗っているんだ。
雨音と話せた、たったそれだけのことで。
もっと手を伸ばしてみたくなる。
もっと知りたい。
涙の理由も、笑わない理由も。
たとえ聞くことしか出来なくても、それでも。
瞳の奥の哀しさに、優しさに気付いたのは
今は俺だけだと思うから。
「…『単純』ってユウに笑われそ…。」
*紗衣side*
…不審に思われっぱなしなんだと思う。
だって私…泣いてばかりだ。
「…あんな避け方…っ…。」
霧夕くんは傷付いたかもしれない。
そして気付いていたはずだ。
昨日の涙にも、今日の涙にも。
その理由を聞かないのは、きっと優しいからなんだろう。
その優しさも、あの寝起きの仕草も
似てる。苦しいくらいに。
彼を思い出させる。鮮明に。
忘れたことなんてないけれど
記憶を余計に呼び覚ます。
赤の他人のはずなのに、似ているってだけでこんなに…
「涙…止まんない…なんて…。」
どれだけ泣けば済むんだろう。
他の日なら平気なのに。
どうしてもダメだ。
雨の日だけは、どうしても。