「今日もまた残業かあ〜」






定時を迎えてもなお、手元には大量の書類たち。




あたし、桧山香苗 ヒヤマカナエ 24歳。

大学を出てこの小さな会社に入社して早2年。

だいぶ仕事にもなれてきた。






「はい、そこ溜め息つかないー」

「すいませ〜ん」






うちの会社の準出世頭の32歳、ちょっと、いやかなりドSな課長若井さんからの一言。






「神崎さんからも何か言ってやってよ」






課長に後ろから椅子を軽く蹴られた。






「若井くんもたまには女の子を先に帰してもいいでしょう」

「神崎さん、こいつ仕事!」





子どものように反論する若井さんと、入社以来昇進するチャンスはいくらでもあったのに、今までずっとこの課で働き続けている神崎さん。

いつも謙虚でおおらかな神崎さんは、あたしが入社したときから何かと心強い存在で

愚痴を聞いてもらったり、お孫さんの話をしたり、結構癒されてる。







「いいんです、神崎さん」

「ほら、本人が言ってるんだもん!」






若井さんに詰め寄られてる神崎さんに申し訳なくて、あたしはそう言った。

案の定若井さんがふふん、と笑ってどかっと自分のデスクに座った。






「ごめんなー、」






頭をぽりぽりしてる神崎さん。






「いいんです、いいんです。仕事が遅いのはあたしのせいなんで」






へへ、と笑ってまたパソコンに向かう。






定時から1時間ちょっと過ぎた頃






「どうしようか、手伝おうか?」






一足先に仕事が終わったらしい神崎さん。

だけど、あたしの仕事まで手伝ってもらうわけにはいかないから






「大丈夫です!あと10分くらいで終わりそうなんで」

「そう?じゃあお先に失礼するよ」

「は〜い、お疲れ様でした!」






神崎さんを送るのと同時に、ふと顔を上げると何人かいた残業仲間たちはいつの間にか帰っていて。

残るはあたしと課長の若井さんだけ。

























静かな部屋にカタン、と音が響く。






背中にふわっと暖かさを感じる。






「あ〜、疲れた」

「うん。お疲れ様」






少しだけ香るコロンに包まれて、静かに目を閉じた。






「今日、香苗かわいくねえか?」

「はあ!?」






椅子をくるっと回されて、唇にキス。






そうなんです。

課長の若井さんはあたしの彼氏なんです。






「ちょ、ちょ、ちょ、しごっ、とが…」






唇が離れると、すぐまた重なろうとするからあたしは急いで抵抗する。






「んだよ、つれねーやつ」







顔が離れて、隣の席に腰を降ろした若井さん。



まさか会社でなんて、という焦りからほっと胸を撫で下ろす。






「香苗は仕事終わった?」

「え?」






いきなり普通なことを聞かれたから、すっとんきょうな声をあげてしまった。






「ん?まだちゅーしてほしかった?」

「!!!」






ニヤリ、とするとまた顔が近づいてくるから、一瞬にして勢いよく血が巡り出す。

付き合うきっかけは、

飲み会で酔いつぶれたあたしを介抱したときに

ころっと、惚れてしまった(若井さん後日談)らしい。





始めこそ驚いたものの、ルックスもそこそこ良いし、性格も(時々子どもっぽいところを除いて)落ち着いたよ大人の男の人だし

あたしにはもったいないくらいの、いい人。

2人でいるときはもちろん、いつでもあたしのことを1番に考えてくれる、優しい人。

だからあたしも惹かれていくのに時間はかからなかった。







「やっと終わったー!!!」

「メシだー!」







あたしの残業に付き合ってくれてた若井さんが、嬉しそうに立ち上がった。

その手は、かばんもコートも掴んでいて、今すぐかけ出しそうだ。








若井さん行きつけの居酒屋に立ち寄る。



いつもの席に座って、ビールで乾杯。






やーっぱり仕事終わりのビールは極上にうまい!






「ぷっはぁー」

「おいおい、」






泡でひげを作ったままあたしが思わず声を出すと、くすくす笑う若井さん。






「勤続30年のオヤジばりの飲みっぷりだなー、負けたわ」

「ひどい!だって、おいしんだもん…」






いくらなんでも、勤続30年のオヤジってひどくない!?

あたしは膨れっ面でまたビールを一口。






「冗談だろ、怒るなよ」






すぐには許さないもん。






「香苗、どうしたら機嫌直す?」

「ふん」






あたしだってそんなに怒ってない。

でもこういうときはいじめたくなるから、もうちょっと!