「そうです…貴方は…貴方は岡崎千夏さん……そして…」
先生は悲しそうに彼に視線を落とした。
そして肩を震わす彼に堪えられなくなると、再び私に視線を戻した。
「そして彼は……柏木誠さん……貴方の……千夏さんの婚約者です……」
「…っくああぁぁあ…っ」
先生の口から『婚約者』という言葉が出た途端、彼の肩が大きく震え、堪えられなくなったように鳴咽が零れた。
「…何か………覚えていることはありますか?」
先生は私を気遣うような優しい声で問い掛ける。
覚えていることは…千夏さんについてどころか、本当の自分についても何一つとしてない。
けれど彼女が…千夏さんがいじめに遭っていたこと
海辺で結婚式を挙げること
彼と同じ煙草の銘柄を好んでいること
そして………彼を心から愛していること…
知っていることならいくつかはあった。
そのいくつかを覚えていると言えば、私の肩を掴んで泣きむせぶ彼を少しは救えるのかもしれない。
彼に希望を持たせることが出来るのかもしれない。
けれど、一つ思い出したと言えば、また新たな記憶を思い出すことを期待されるだろう。
これから過ごす八日間を考えると、何一つ知らないことを貫いた方がいいと思った。
肩から伝わる熱い体温と、震える彼の身体に胸が痛む。
けれど、私は先生の目を見据えて言った。
「何も……分かりません…」
「う…っ…うぁぁぁああーーーーーーーーーー!!」
重く瞼を落とす先生の横で、絶望にも似た声が響いた。