…時間がたちすぎた。


きっと、そうだった。


お互い共有できない時間が、あまりにも長く流れてしまった。

その間、ヒカルの思い出だけを抱えて生きていくなんて、あたしには無理だった。


後悔は全て、自業自得だ。


「…なぁ、あお」


俯いて泣き続けるあたしに、ヒカルはそっと言った。


「これは、別れじゃないけぇ」


優しくそう言うヒカルの声に、あたしはゆっくりと顔を上げた。

目の前に立ったヒカルは、あたしを優しく見下ろす。

「昔…お前に簡単に別れを言ったこと、後悔した。簡単に手放したこと、簡単に諦めたこと…すげぇ後悔したんよ。だから…」

一度言葉を切り、ヒカルの視線はもう一度あたしを真剣に見つめた。


真っ直ぐに、迷いなく。


「もう簡単に、別れは言わん。『ばいばい』なんか、言わん。もう一度会えたこと、無駄になんかせん」

ヒカルの真剣な言葉は、あたしの全てに響いてくる。

涙が止まらない。


「どんな関係でもいい。俺はもう、お前に別れなんか言わん」


真っ直ぐなヒカルの想い。

ずっと信じたかったものを、今ヒカルが信じさせてくれる。



変わらないものも、ある。


変わり行く世界の中でも、刻々と変化を遂げる想いの中でも、ずっと変わらないもの。



「俺はもう、お前を手放したりせん」




溢れる涙を拭うこともせずに、あたしはただ、ヒカルを見つめていた。



…あの時、簡単に別れを選んだことを、どれだけ後悔しただろう。

あたしがもう少し強ければ。
もう少しヒカルを信じることができたら。

何度も何度も考えた。


ヒカルともう一度会うことが怖かったのも、あの別れをもう二度と経験したくなかったから。

もう二度と、あの想いを感じたくなかったから。


でもヒカルは言ってくれた。


どんな関係でも、別れは言わないと。


例えもう、抱きしめあうことがなかったとしても。

それでも変わらない。
手放したくない。


「うん…っ」



…もう二度と、ヒカルを失いたくない。


それはあたしも、同じだった。



頷いたあたしの前で、ヒカルが小さく笑った。


その笑顔は、あの頃のものと何も変わっていなかった。


渡り廊下で見せた、あの愛しい笑顔と。




















…ヒカル。



あたし達はずっと、お互いを求めすぎていた。


だからこそ、些細な距離すら耐えられなくて、寂しくて悲しくて仕方なかった。


一度は別れを選んだけど。


どうしようもないこの衝動は、どんなに離れても消えることはなかった。


離れても、寂しいことにかわりはなかった。


その事に今、ヒカルが気付かせてくれた。



離れることが、答えじゃなかった。

離れてもなお、消えない想いが答えだった。


例えばいつか、また二人が抱きしめ合える日が来たとしても。

もうずっと、触れることができないままだったとしても。



それでもきっと、この想いは変わらないだろう。


言葉にならない、この想い。











i want,












あなたの全てが、ただ欲しかった。












たった、それだけの想い。






















……………








……………

外に出ると、思ったよりも寒くて身震いした。

「ね、八槇さんやんな?今からみんなでカフェいかへんて話してんねやけど、行かへん?」

後ろから出てきたスーツ姿の女の子達に声をかけられて、振り返る。面接を一緒に受けてた子達だった。

「あー、ごめん、あたし今から予定あって」
「そうなん。残念やなー。ま、また会えるやろしね!内定出たらいいねっ」

じゃあね、と、軽く手を振って彼女達はビルの隙間の路地に入って行った。穴場のカフェがありそうだと思った。

ふうっと軽く息をついて、あたしは彼女達とは反対方向へと向かった。夕方の空はもう半分暗闇が閉めている。夜になるのが随分早くなったと思う。


携帯を取り出して、電源をつけた。新着メールを問い合わせると、二件入っている。
一件は就職サイトからのお知らせ。それは流し読みをして、もう一件を開く。

『今日大阪?仕事7時に終わるし、飯作って』

案の定、予定があった。

つけ加えた様に、『材料は冷蔵庫をご自由に』とあったが、そんな期待できる食材があるわけでもないだろう、あたしは判断して、近所のスーパー経由で行くことにした。

パスタかオムライスだな。
さっき彼女達が言ったカフェに影響されたかな、なんて、寒空の下思った。
























……………

「今日はカレーを期待してたんやけど」
「文句あるなら自分で作れば?」

口元を尖らせる彼の前に、あたしはほかほか湯気が上がるクリームパスタを置いた。

「あたしはパスタが食べたかったんじゃもん」
「冷蔵庫の材料使えってゆうたやん」
「お肉もないのにカレーを作れと?」

多少乱暴にレモン水を置いたからか、彼は肩をすくめて「いただきまーす」と素直に箸をつけた。

「うまい?」
「ん、うまい」

あたしも座ってパスタを頬張る。我ながら、なかなかよくできたと思う。

「あお、今日面接?」
「ん、面接」
「どやった?」
「まぁ、手応えはあるかな。多分大丈夫」
「関西の会社?」
「大阪」

「ふーん」、興味あるのかないのか、レモン水を軽く飲んで呟いた。

「ヒカルは?今日は仕事どやったん?」
「ん?普通」

お得意の『普通』。ヒカルは、あまり自分の仕事の話をしたがらない。
それをわかっているから、あたしも敢えてそれ以上は聞かなかった。

お互いのクリームパスタがなくなった頃、丁度時計の針が9時を指した。



「あお、終電間に合う?」
「うん、そろそろ行こうかな」

立ち上がりかけたあたしと同時にヒカルも立ち上がり、「送るわ」とジャケットを取った。

あたしもスーツのジャケットを手に取り、ヒカルの家を後にした。


「寒ぃな」
「ね。もうコートは必需品じゃね」

駅までの道のりを、二人並んで歩く。
この感覚も、もう何の違和感もなかった。

「あお、正月帰るけ?」
「んー、多分帰らん。就活入るやろし。ヒカルは?」
「30まで仕事やけぇな。無理じゃろ」

「金もないしの」、そう言って笑うヒカルの口元に、白い息が見てとれた。

「ここでええよ」

駅の手前で立ち止まる。いつもの場所だったから、ヒカルも「おぉ」と答えた。

「気をつけて」
「うん。あ、パスタまだ残ってるから、明日の朝にでも食べて」

「伸びてると思うけど」、そう言うと、ヒカルは「じゃろうな」と笑った。

「じゃあ」
「あお、」

駅に行きかけたあたしに、ヒカルは自分の首もとのマフラーを差し出した。

「寒ぃけぇ」

小さく笑うヒカルの笑顔。昔より随分、優しくなった気がする。
あたしも素直に笑って、「ありがとう」と受け取った。

そのまま軽く手を挙げて、ヒカルは背中を向けた。
その背中は、やっぱり昔と変わっていない。

あたしはしばらくヒカルの背中を眺めた後、駅の中へと足を進めた。


…大学二回の冬、あの悲しい出来事の後ヒカルと再会してから、もう丸一年がたとうとしていた。

ヒカルと再会してからどうなるか不安もあったが、思ったよりもお互い違和感なく『普通』でいることができた。

お互い関西にいるから気付いたら連絡も取っていて、暇な時はよくご飯を食べたり飲みに行ったりしている。
昔と同じようにヒカルの家でご飯を作って、一緒に過ごす。それが当たり前になっていた。

昔と何らかわりないあたし達がいる。


昔と違うこと。
それは、あたしがヒカルの彼女ではないということ。



「何で付き合わへんの?」

麻美が買ったばかりのポテトを口に頬張りながら聞いてきた。
丁度四限が始まったばかりのラウンジは、お昼時に比べれば閑散としている。

「別に…。だって、今更やん?」
「何が今更なん。元彼と再会して、いい感じな状態で、付き合わへん選択肢がありえへん」

麻美の隣で、理名もうんうんと頷いていた。
あたしは口元を尖らせて、紙パックのいちごみるくを飲んだ。

「別に付き合わんくても…」
「今のままでいいって?いいん?もし向こうに彼女ができても」
「いいっていうか…」
「いいやん別に。向こうもあおいも、お互い今フリーなんやし」

「いつ向こうに彼女ができるかも、わからへんやん」、そう言う理名に、今度は麻美がうんうんと頷いた。

ヒカルと再会した時、あたしには彼氏がいた。
年上の、大人な彼氏。まだ幼いあたしを包み込む優しさと包容力があった。

でもヒカルと再会して、あの頃の記憶が蘇り、あたしは今まで通りでいることが出来なかった。

思い出す。あの頃の感情、衝動、欲求。
そんな思いを抱えたまま、付き合い続けることは出来なかった。