「……そう。凪なら、サヤのとこに行ったよ」
「……!」
思い出した。
早坂って、祠稀のお母さんの主治医だった人だ。凪が、知り合いだって言ってた、お医者さん――……。
「なんっで……行かせてんだよオメーは!」
「っ祠稀! ダメッ、喧嘩はダメー!」
胸倉を掴まれ、祠稀に威嚇される彗はムッと眉を寄せる。
「俺、誰の味方でもないもん」
「たまには少しくらいブレろっつーの!」
「イヤ」
「祠稀ぃぃい!」
プイッとそっぽを向いた彗に、今にも殴りかかりそうな祠稀を必死に止める。
祠稀は盛大な溜め息をついてから彗を離すと、ドサッとソファーに座って煙草に火を点けた。
「お前、凪が大事じゃねぇのかよ」
「……大事だよ、何言ってるの」
ふたりが醸し出す険悪な雰囲気に、あたしはハラハラすることしかできない。
頭の隅では、早坂さんがサヤだってこととか。じゃあ凪は昔病気してたんじゃないかとか。
早坂さんと凪の関係は、いわゆる不倫ってやつなのかとか、色々考えてはいたけれど。目の前のふたりから目を離すことはしなかった。
「結婚してる相手に恋慕って、それでいいのかって言ってんだよ」
「……凪は、サヤのこと好きなんかじゃないよ」
「はぁ!? 大嫌いな奴にわざわざ夜会いに行って、何が好きじゃねぇだよ!」
「……怒鳴らないでよ」
眉間に深く皺を刻む彗に、祠稀は苛立ちを抑えるようにフィルターを噛んだ。
……あたしには、彗が苦しそうに見える。
彗もこのままでいいとは、思ってないんじゃないの……?
そんな分かったような口を利ける勇気はなくて、あたしはその思いを胸の奥に仕舞い込む。
「……つうかマジ、意味分かんね……」
「……祠稀」
これもまた、分かった風な口は利けないけれど。
あたしが思ってるよりもずっと、祠稀は凪のことが好きなんじゃないかと思った。
彗がひた隠しにしていた凪の秘密は、バレたらアッサリと話してくれてるようで、そうでもないように感じる。
それは、サヤさんと凪の間に何があったのか明確に知らないから?
でもきっと彗は、話してくれるつもりはないんだ。
分かってる、けど。
「……好きじゃないなら、どうして会いに行くの?」
祠稀が凪のことを知りたいと思うように、あたしだって彗のことが知りたい。出過ぎた真似だと思われても、鬱陶しく思われても。
聞くことをしなければ、真実に近付けるわけがない。
「……好きとか、そんな次元じゃないから。凪が、サヤに持ってる想いは」
「「……」」
そ、れは……どういう意味だろう。大嫌いだと、凪は言っていたけど。
彗は短く息を吐くと、ソファーに寝転ぶ。
あたしも祠稀も黙っていると、微かな息使いの後、彗はテレビの画面を見ながら口を開いた。
「……凪にとって世界でいちばん愛してる人で、世界でいちばん憎くてたまらないのが、サヤ」
愛してるのに、憎いって……。
「……何があったわけ?」
そう、思う。
祠稀に同意するように沈黙を続けると、彗は「朝言ってたでしょ」と言いながらリモコンを手に取り、チャンネルを変え始めた。
「凪が好きだと気付いた時にはもう、サヤには恋人がいて、そのあと結婚もしちゃったんだ。……憎いなんて言って、気持ちをごまかしてるだけだよ」
「……彗はサヤのこと、どう思ってんの」
頻繁に変わっていたテレビ画面が、音楽番組で止まる。リビングに響き出す流行りのラブソングが、今は煩わしく感じた。
「……思わせぶりな人だなぁって、感じかな」
あたしと祠稀の顔を見ないままそう言うと、彗はリモコンを置いて上半身を起こす。そのまま立ち上がった彗を見上げると、微笑んでいた。
「……俺は誰の味方でもないから、一応教えてあげる」
笑ってるのに、痛そう、苦しそう、つらそう……そんな笑みを浮かべ、彗は祠稀を見下ろして言った。
「凪は今頃……サヤに抱かれてるよ」
今日は帰ってこない。
そう付け加えて、彗は自室へと入って行った。
形容しがたい空気がリビングに充満する。静かで、穏やかに思えるのに。どこか刺々しく、冷たかった。
――あたしたちは幸せを求めていたはずで、ちゃんと幸せだと感じるのに。そんなものは、虚構だと言われてる気がした。
まるで、あたしたちに静謐は似合わないと、嘲笑ってるかのように。
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◆Side:凪
まるで、猿だ。
「……凪……腰落ちてる」
ああ、犬か。
目の前に広がる鏡に映った自分が、あまりにもみっともなくて笑える。
真っ裸で、四つん這いになって、あろうことか尻を突き出してるなんて。冷静に見るとおかしくて堪らない。
ゴツゴツした手が右の乳房を揉みしだいて、もう片方の手はガッチリと腰を支えている。
背中を這う柔らかい唇と舌に、ゾクゾクと這い上がる快感は嫌いじゃない。むしろ好きだ。
「……もう、限界?」
くすりと鼻にかかった笑いが、あたしの中心を熱くさせる。
汗で張り付いた髪を避ける気力もないほど体中ダルいけど、それは求めた倦怠感。
鏡越しに目を合わせると、獲物を捉えたような強い眼差しにぞくりとした。
「……まさか。足りないよ」
そう口の端を上げるとゴロンと寝転ばされて、向き合う形となってしまう。
「やだ、正常位ですんの?」
小馬鹿にしたように笑うと、反撃だとでも言うように、熱い手の平が太腿をユルユルと撫で上げていく。
もったいぶるような動きは最初こそいいものの、段々とじれったくなる。
求めるように、促すように、胸の突起を口に含んでいた彼の黒髪を梳くと、意地悪い笑顔が眼前に広がる。
顎を固定され、唇が触れたと思ったらすかさず入りこんでくる熱い舌。
あられのない声をあげ続けて乾いた咥内が、湿り気を帯び始めた。
「……っ、」
ビクッと体を跳ねさせると、両脚の付け根の中心を弄っていた手が止まる。スッと中心を撫で上げられれば、甘い痺れが蘇った。
幾度も、幾度も、もう無理と思っても、情欲は湧き上がる。
「……復活。ほら」
くすくすと笑いながら、濡れた自分の手をあたしに見せる変態。荒い息を整えながら睨むと、耳朶を軽く噛まれて囁かれる。
「名前、呼ばないの……? 凪」
……呼ばれたいの?
セックスの最中に名前を呼ばれて興奮するなんて、女だけの気もするけれど。
「……変態」
「ははっ。凪には言われたくないな」
それもそうか。あたしも、変態の部類に入るに決まってる。
「……サヤ」
「……うん?」
「サヤ」
「うん。俺に、何してほしい?」
ああ、つくづく嫌な男だ。
それでも、それでも。あたしはまだ、サヤを求め続けている。
彗はこんなあたしを、どうして見離さないんだろう。……なんて、自分で縛り付けといてよく言う。
「……凪? 泣いてんの?」
瞼にキスを落とされて、冷たくも熱くもない涙が頬を滑る。
この涙と一緒に、サヤへの想いも流れてしまえばいいのに。抱かれるたび、想いは募る気がしてならない。決して、口にはしないけれど。
「……サヤ……」
「うん?」
「壊して……傷つける勢いで」
激しく、荒く、壊してしまうくらい、乱暴に刻み込んで。
あたしの、罪を。
「凪が望むなら。……先にイッてもいいけど、俺は続けるからね?」
そう言われた瞬間、容赦なしに重みのある質量に突き上げられた。
「……っ、あ、……っ!」
薄いゴムのせいか、生々しい感触のそれが大きくグラインドし始めて、声が震えた。打ち付けられるたび、突き抜けるような快感が背中を走り抜ける。
「……苦し……っ」
「はっ、好きでしょ……苦しいのっ」
あたしを見下ろす両の目が、情欲の色を孕んで。嬌声を上げるたびに、厭らしく口の端を上げられた。
ラブホテルの一室に響く水音と荒い息使いは耳まで犯し、生理的な涙を流しても、与えられる快感に陶酔する他ない。
熱を持つ体をどうにかしてほしくて。募るばかりの想いを消してほしくて。
強い刺激に焦がれるあたしは、相当頭がイカレてる。
欲しいのは、こんなものじゃないのに。本当は、セックスなんて必要ないのに。
一緒にいれば、そばにいられたら、それだけで充分なのに。あたしは、あたしを、サヤに植え付けたい。
あたしなしでは生きていけなくなるほど、求めて欲しい。
「……っサヤ、あ、イッ……あぁっ!」
体が震え、突っ張っていた体が力を失っても、行為は続けられる。幾度も、幾度も、離れていた分埋めるように。
沈んで、堕ちて、朽ちて。
いっそこのまま死んでしまいたいと思うほどに。
『子供ができたんだ』
そう言ったサヤの幸せを、感じ取ってしまわないように。
あたしはこの晩、泣きながら、幾度も果てた。
「……ダル……」
空が僅かに鈍色に染まった頃。ぐしゃぐしゃになった髪を手櫛で整えながら、ベッドに横たわる筋肉質な体を眺める。
スーッと静かに寝息を立てるイイ男は、いびきのひとつも掻かないのか。
先に意識を手放したのはあたしだけれど、疲れてるだろうし、起こすのもかわいそう。
まだかすかに残る体の微熱は、どうにか冬空の下で掻き消そう。
ティッシュに包まれた欲望のそばに落ちる下着を拾い上げ、のろりくらりと身に付けた。
自分の体が思ったほどベタついてないのも、僅かに香るボディローションの匂いも、いつものこと。
あたしは先に寝てしまって、シャワーを浴びるのも面倒くさがるから、抱いてくれた彼がいつも湿らせたタオルで体中を拭いていてくれる。
拭いきれない男の匂い、汗の匂い。あたしはそれを纏ったまま、黒のボレロに袖を通した。
鞄の中から電源を切っていた携帯を取り出そうと思ったけれど、手に取ってから再び奥底に押し込む。
変わりに黒いレースのシュシュを取り出して、適当に髪を括った。
……ストレートに戻そうかな。
手入れが面倒なスパイラルの赤毛を軽く引っ張って、溜め息をつく。そのまま鞄を持って立ち上がり、穏やかに眠る彼の顔を覗いた。
少し髭が伸びてることがおかしくて、笑いながら頬にキスを落とす。
「……ん」
身を捩って口の端を上げる姿は、いい夢でも見てるんじゃないかと思った。
聞こえはしない言葉の代わりに頭を撫でてから、あたしはひとりで部屋を後にする。
底冷えの早朝、静かに頬を流れる涙には、誰も気付きはしなかった。
「……あ、そこでいいです」
タクシーに乗って、マンションの最寄り駅の前で下ろしてもらう。チクチクと刺さる様な冷気が、火照っていた体温を奪った。
……この前買ってきたファーのマフラー、してくるんだった。
ぼんやりそんなことを考えながら、やっぱりマンションの前まで乗ればよかったと少し後悔する。
朝5時の駅前はさすがに冬ということもあり、たむろしてる人はいなかった。
もう11月末に差しかかる。
テストが近いことが憂鬱で仕方ないけれど、今のあたしにとってテストなんてどうでもいいモノでしかなかった。
「――凪」
俯き加減にマンションへ歩いてたあたしは、現れた2足のショートブーツに目を見開く。声と言ったほうがいいかもしれない。
急速に込み上げた愛しさを押し殺し、おもむろに顔を上げた。
「な、に……なんでいるの……」
そこに立っていたのは、眠そうな目をしたいとこであり、義弟でもある彗だった。
少し鼻の先を赤くして、ズッと鼻を啜る彗はどう見たってかわいい。
驚くあたしなんてお構いなしに、低血圧なはずの彗は「迎えに来た」と微笑む。
なんで彗ってそうなの……天然のくせに、いつもどこか冴えてる。
「……え、……凪?」
その場にしゃがみ込んでうずくまるあたしに、駆け寄ってくる長い脚。
「……腹イタ?」
違う、バカ。泣いてるんだって、気付くでしょふつう。
「……凪、大丈夫だよ」
何が?
どうして?
何が大丈夫なのよ。
どうして大丈夫なのよ。
そんなことは聞かなくたって分かってる。そばにいてくれるんだって、分かってる。
「凪」
緩く頭を上下する彗の手が、どうしようもなく愛しい。
でもやめてほしい。
そんなものは、今はいらない。
「優しくしないで」
そう言って手を振りほどいたのに、彗は再びあたしの頭を撫でる。
「頑張ったね」
「っ、やめてってば……」
何度やめてと言っても、か細い声は彗には届かないみたいで。
ぎゅっと抱き締められたら、後から後から滲む涙を惜しげもなく流すしかなかった。
「……俺は、凪のためならなんでもするよ」
「……」
「凪が泣かずに済むように、なんでもするよ」
あたしを包む腕の力が強くなったことで、自分が震えていることに気付く。
それほど寒いわけではないのに。むしろ抱き締められて温かいはずなのに。
あたしの心をそのまま表したような体の変化に、自嘲せざるを得ない。
そんなあたしが口にした言葉は、覚悟も躊躇いすらせずに放ったものだった。