俺が大人になった冬

例えば家庭内がいつも穏やかで、夫婦がお互いの存在を尊重し、馴れ合いにならず、多少は気遣いながら、相手を思いやり、子供がいたとしても恋人気分を忘れずにずっと過ごしていけるのならば、きっと男も女も浮気なんてしない。

母親も、彼女と同じように、腹の子の父親に支えて貰わなければならないほどボロボロに傷ついていたのだと。と、そんなふうに思えるようになった。

2月のはじめ。俺は引っ越してきてからはじめて自分から母親に電話をかけることにした。

家を出て約3年。

用件があるときにはメールを利用していたため、会話すること自体が3年ぶりのことで、電話をかけるまでにもの凄く緊張した。

発信ボタンを押しては、やはりやめようかと思い直し、ダイヤル途中で繋がる前に切り。そんなことを何度も繰り返した。
やっと覚悟を決めて電話を繋げたのは、かけることを決めてから20分も経ってからだ。

呼び出し音が鳴るあいだ、緊張しすぎて吐きそうになった。

「もしもし……俺」

俺からの突然の電話に、母親はひたすら驚いていた。

パニックになった母親は何度も何度も本当に俺なのかと確認し、しまいには振り込め詐欺ではないかと言い出す始末で、思わず笑ってしまった。

母親との電話はそんなに長い物ではなかったし、大したことも話さなかったけれど、今までのわだかまりが、スッと溶けたような気がした。

でも、散々反発しておきながら、今更恥ずかしくて「母さん」と呼ぶことはできなかった。




ケータイに見たこともない番号から電話が入ったのは、3月の頭のことだった。

「誰だよ。こんな早くに」

午前8時14分。特に早い時間ではなかった。

しかし大学が休みでのんびり寝ていた俺は、その音に起こされ非常に腹が立った。

電話の相手が全く誰だか見当がつかず、とりあえず留守電に切り替えてみる。

「もしもし……?」

心臓が大きく反応した。

間違いなく彼女の声だ。約2ヶ月ぶりの声に、俺は咄嗟に動くことができなかった。

思っていたよりずっと早い彼女からの電話。夢なのか、現実なのか分からなくなり、頭が混乱した。

「向井さんのケータイでしょうか?」

彼女はとても堅苦しい声で、事務的に自分の名前を名乗る。
「電話番号が違うから……」

会えないあいだ、彼女のことを想わない日は1日もなかった。

旦那に責められているのだろうか。

誰にも理解してもらえないのだろうか。

両親にきちんと話ができたのだろうか。

味方してもらえたのだろうか。

ズタズタに心を引き裂かれて、心が壊れてしまっていないだろうか。

色々なことを考えて、メシもあまり喉を通らない日が続いた。

そんな調子で1ヶ月が過ぎ、さすがに食欲は徐々に普通に戻ってきたけれど、今度は心配が不安に変わった。

うまく離婚できたとして、彼女は俺に連絡をくれるのだろうか?と。

「また、電話し……」

電話が切れてしまう!

ハッとして慌てて通話ボタンを押す。
「も、もしもし!」

「あ……」

「ごめん。寝てて」

胸が異常なぐらい高鳴って、息苦しい。

「おはよう」

耳に優しく響く彼女の声が、なんだかとてもくすぐったくて。嬉しくて。愛おしくて。また、ほんの少しだけ泣きそうになった。

「おはよ……」

話したいこと、聞きたいことはたくさんあるのに、どれから口にしていいのか分からず……それは彼女も同じなのか、少しのあいだ沈黙があった。

「もう、決まったの?」

先に言葉を発したのは、俺の方だった。

今思えばもっと気の利いた言葉があっただろうと思うが、散々言葉を選んだ挙げ句そんなダイレクトな言葉しか出てこなかった。

「ええ」

そう言って、再び黙り込んだ後彼女は

「ごめんなさい」

と、言葉を繋げた。
「え?」

思わぬ言葉に鼓動が激しさを増す。

「離婚……できなかったのか?」

「ううん。違うの。話したいことは沢山あるのに、言葉が上手く出てこなくて。ごめんなさい」

彼女のこの言葉を聞くまでのほんの短いあいだに、色々な考えが俺の頭を駆けめぐった。それは見事なまでに、もの凄い勢いで『彼女は旦那に監禁されているのかもしれない』というところまで飛躍していた。

「ビックリさせんなよ」

俺の気が抜けたような声を聞いてか、彼女もホッとしたように

「そうよね」

と言いながらクスクスと小さく笑う声が聞こえた。

2ヶ月ぶりの優しい声。柔らかい笑顔が目に浮かび、彼女への想いが一気に沸き上がる。

「なぁ」

「ん?」

「会いたい」

真っ直ぐな気持ちを言葉にしたら、何故だか急に不安が襲った。

この電話は結果報告だけなのかもしれない。

離婚が決まり心が穏やかな状態になった今の彼女は、俺の支えなど必要なくなっているかもしれない。

もう俺に会ってくれないかもしれないと……

「すげぇ……会いたい」

俺は不安な気持ちを押し隠し、心の底から絞り出すようにもう一度同じ言葉を口にした。

すると、

「私も」

と、彼女の笑みを含んだ声が、俺の耳に届いた。




2ヶ月ぶりに彼女に会える。胸がやたらと高鳴った。

俺は馬鹿みたいにあれでもない、これでもないと部屋中に服をまき散らし、まるでデート前の女のように着る服を選んだ。

何通りか、めぼしい服を組み合わせて床に並べてみる。久しぶりに会うんだし、どうせなら「会わないあいだに、なんだか大人っぽくなったわね」と、そんなふうに言わせたい。

しかし、持っている服が急に大人っぽくなるわけもなく。

駅前のデパートで新しい服を買う金銭的余裕もなく。

結局、持っている服の中で比較的落ち着いた感じの服を着ることにしたが、いつもと大して変わらない。

せめて髪型だけでもカッコよくセットしようと、寝癖で爆発している髪をどうにかするため、ひとまずシャワーを浴びることにした。

午前9時40分。予定より20分早く家のチャイムが鳴り、心の準備ができておらず緊張の波が一気に押し寄せた。
苦しいくらいの鼓動に堪えながら、ドアの前で一呼吸し、気持ちを落ち着け

「はい」

と、落ち着いた素振りでドアを開ける。

「こんにちは」

ドアの前に立っていた彼女は、離婚して気持ちが穏やかになったせいか、今まで見たことがないぐらいキラキラと輝いて見えた。

彼女の笑顔を見た瞬間、色々な想いが込み上げて胸が一杯になり、思わず彼女を抱き締めたい衝動に駆られた。

でも、それはできなかった。

抱き締めてはいけない気さえした。

離婚したということ以外、彼女はなにも変わっていないはずなのに、何故だか『距離』を感じずにはいられなかった。

彼女を部屋に通し、俺は無言でお茶を入れた。

この2ヶ月、彼女がどうしていたのか。

俺がどうやって過ごしていたのか。

どんな気持ちでいたか。

話すことはたくさんあるのに、電話のときと同じでどれもうまく言葉にはならず……

緊張なのか、なんなのか言葉が出てこなかった。