「いい加減にしろ!」


青い顔で叫ぶ夫の背中に、私は震える声で呼び掛ける。


「……あなた」


「出来ないと言っているだろう!!」


「あなた!!」


「娘は……関係ないだろう!」


怒りに震える夫にわたしはすがりつく。


「あなた、やめて!!」


「ふざけてないで、娘を返せ!!」


夫の怒鳴り声が聞こえた時、受話器の向こうから娘の泣き声が聞こえた気がして、わたしは必死に受話器に手を伸ばした。


”ママ、助けて……痛いよ……”


「メイーーーーー!!」


娘の名前を叫びながら、夫の手の中の受話器を奪うように取る。


「なんでもします!だから、どうか、どうか娘の命だけは……!!」




『クク……奥さんかい?アンタの旦那はそんな風に思ってはいないみたいだぜ?』




からかうような愉快そうなその声が受話器の向こうから聞こえた時、一瞬にして私の全身を恐怖が駆け抜けた。


メイは、あの子は今……どれだけの恐怖と闘っているのだろう?


「メイ!メイを返してーーーー!!」


取り乱すわたしから夫は受話器を取ると、絞り出すように悲痛の声を零す。


「やめろ……やめてくれ……出来ない、出来ないんだ、そんなこと……出来るはずがない……!!」


「あなた!!お願い!お願いよ、メイを、メイを助けて……あなた!」


わたしは狂ったように必死に叫んだ。


「お前達の要求なんて……!我々国連は、お前たちみたいな『悪』に屈する訳にはいかないんだ!」


「あなた!メイを……あなた、あなた――――!!いやあっ!!」




受話器の向こうで銃声が聞こえた。


何が起こったのかわからぬまま言葉を失った私達の耳に、やがて通話切れの機械音だけが不気味に残る。









 


あれからもう、どれくらい経ったのだろう……?


青い青い空をぼんやりと見上げると、真っ白い雲がふわりと浮かんでいた。


白い雲は優しく形を変え、静かに穏やかに流れていく。



嘘みたいだ。


同じ空の下で『戦争』が起こっているなんて。



嘘みたいだ。


この一瞬にもどこかの国で誰かが『死んでいる』なんて。



嘘みたいだ。


メイが死んだ、なんて……。







メイが誘拐されて2日後、私達の元に小さいダンボール箱が送られてきた。


首と両手足、そして胴体がバラバラの……それは愛しい娘、メイの変わり果てた姿だった。








 


娘を失いながらも”世界の平和”を貫いた夫は、いや、私達夫婦は『英雄』として連日テレビや雑誌に取り上げられた。


娘の死がむごければむごいほど……


心の傷が深ければ深いほど……


そしてそれを晒せば晒すほどに


世界中の人々が私達夫婦を尊敬し、敬愛した。




『お嬢さんの死を無駄にはしない!』


『平和な世界を作ろう!』


『これからも一緒に頑張ろう!』


世界の指導者や政府高官は涙ぐみながら手を差し出す。


『ありがとうございます!』


そう言って堅く握手を交わす、夫。







今日も私はまた、空を見上げる。


こんなに空が青い日は……


何もかもが『嘘』のように『夢』のように、感じられる。











 

「おばちゃん!」


弾むようなその明るい声の持ち主に、女は答える。


「なあに?メイちゃん」


「あのね?お菓子、いっぱいある?お友達も誘っていい?」


「今日は村の人全員を誘って、パーティをしましょう。おばちゃん、みんなの分のスープも作って来たのよ。お菓子はメイちゃんだけ、ひとりじめしちゃっていいのよ」


「やったぁ」


嬉しそうに笑う無邪気な少女の柔らかい髪を撫でながら、女は優しくメイを見た。


「奥様……本当にいつもいつも、申し訳ありません。ありがとうございます」


メイの母親が、深々と頭を下げながら言った。


「本当に、奥様は……素晴らしい方です。みんな喜びます」


「わたし、メイちゃんが本当に可愛いのよ……今日はメイちゃんの特別な日。みんなで『お祝い』をしましょう」


「……今、みんなを呼んで来ますね!」


幸せの涙を流して、メイの母親はいそいそと出掛けて行った。




 


断末魔の叫びが聞こえる。


喉を掻き毟りながら苦しむ村人の側に佇むのは、”英雄”と呼ばれる女だった。


女の隣には、泣きながら母親を呼ぶ6歳の少女、メイ。


「おかあさーん!おかあさーん!!」


「メイちゃん……」


女は少女の肩をそっと抱き寄せた。


「おばちゃん……みんな、みんなどうしたの?おばちゃんのスープを飲んで、みんな、みんなおかしくなっちゃったよ……おかあさん、もう動かない。怖いよ、怖いよ……」


「メイちゃん、あなたはこれから『幸せ』を見つけるのよ」


女は柔らかく微笑むと、少女の瞳を覗き込んだ。


「メイちゃん、あなたは『自由』になったの」


「自由?」


大きな瞳から溢れ出る涙をそのままに、少女は隣に佇む女をそっと見つめた。




 

「メイちゃん、『自由』ってわかる?」


「わかんない……」


「『自由』ってことは、『未来を選ぶ』ってことなの」


「メイ、よく、わかんない……」


しゃくり上げながら少女は答える。


「メイちゃん、あなたの『おかあさん』は死んだのよ」


「しんだ……」


「もう、おかあさんには会えないの」


「どうして、しんだの?」


「『殺されたから』」


「……もう会えない?」


「ええ、会えない。永久に……」


微笑みながら、女はそう言った。






 

「メイちゃん、おかあさんを殺した人が憎い?」


「うん、にくい」


「殺したい?」


「うん、ころしたいよ……ぅえーん!」


「じゃあ、私と一緒に帰りましょう」


「……おばちゃんと?」


「いつか……メイちゃんのお母さんを殺した人を教えてあげる」


「……うん」


女は少女の手を引いて歩きだす。


柔らかい、小さい手―――。




<私はいつか、この小さい手に殺される日が来るのだろう……>



女はその”喜び”を隠そうともせず、その整った唇の端をきゅっと上げた。











  



ねえ、あなた?


小さいけれど庭つきの家


無邪気に遊ぶ愛しい娘


柔らかく目を細め


デッキチェアに腰掛けるあなた


それが私の『幸せ』だったんです






守るべきは


そんな、些細な日常だったんです


たとえ、世界を敵に回しても……






それが叶わないと知った時から


娘がいなくなったあの日から


わたしの『幸せ』は未来永劫、無くなりました






憎いんです


幸せそうなあなたが
笑顔のあなたが


『命』と引き換えに得られた、この『平和』が……









 


この世は、嘘ばかりです


『愛』なんて見せかけです


『幸せ』なんて此処にはありません


『平和』なんて何処にもありません


お金を与えるだけじゃ駄目なんです


愛を与えるだけじゃ駄目なんです


与えられることばかり望んでいては駄目なんです




『幸せ』は『産み出すもの』


『平和』は『育てて行くもの』


『愛』は『そこにあるもの』




与えられるだけの愛は


与えられるだけの命は


与えられるだけのお金は


なんて傲慢で、そして儚いのでしょう?


この平和な村の、人々のように……