俺を挑発したことなど始めからなかったかのように自然に振る舞う桂。それに困惑する反面、安堵する気持ちもある。
 きっと桂が自分から意識して俺を避けることはない。
 俺さえ冷静さを保つことができれば、すべてうまくいく。いままでとなにひとつ変わらないように。
 幾分か落ち着きを取り戻した俺は、改めて桂に視線を向けた。持ち上がった形の良い唇がそこにある。沸き上がる記憶と共に滲み出る扇情を圧し殺して、俺も笑った。
「今日もピアノを弾いてから帰るのか」
 口に出して、しまった、と思った。音楽室に関する話題は挙げない方が利口だった。
 桂は少し考えたあと、静かに首を横に振った。
「今日はアルバイトが入ってるの」
 予想していなかった返答に思わず間の抜けた顔をしてしまう。桂がアルバイトをしているなどと聞いたことがなかったのだ。
「なんのバイトしてんの?」
 あまり考えないまま返した言葉に、桂はすぐには答えなかった。長い髪を耳にかけそっと目を伏せる。
 バランス良く生え揃った睫毛が何度か上下したあと、桂は言った。
「サービス業ってとこかな」