一瞬俺は躊躇した。美しい背中に声をかけていいものなのか迷った。
 普段の彼女は穏やかな人種であることは分かっている。けれど起爆スイッチに触れたら最後、また学校中に噂が広がる暴走行為をしかねない。なんせ小さな花を踏んづけただけで男ひとりを投げ飛ばす女だ。
 失敗をして嫌われてしまうよりは、名前も知らないクラスメートでいたかった。
 だがここで引き返すわけにもいかなった。手の中には音楽室の鍵。音楽の授業は週に一度しかないため、他の生徒が机の中にある携帯電話に気付かなかった場合、来週まで俺は誰からも連絡のつかない人間になってしまう。「笹原さんがいたので音楽室に入れませんでした」などと明日また鍵を借りに行くのも馬鹿げている。
 話しかけるしかないか。意を決して、俺は再び歩き出した。