「いや、何でもない」
 妻の様態を慮るどころか、空腹感が先行していた。
 ニュートラルに入ったギアをローに入れ、車を発進させた。
 勢いよく砂利道をセカンドで脱出、側道に出る。沈黙が車内を占領し、やや重苦しい雰囲気になった。
 助手席で後方に凭れている筈の梓の視線が、僕の左肩に突き刺さる。
 ギアをサードに入れたとき、梓がいった。
「どこでもいいから、近くの病院にして」
 妻は落ち着きを失っていた。
 車内の計器類を照らし出すディスプレーが、鮮やかなグリーンで時を告げている。

―PM1:15。

「あぁ」と短い返事をして、アクセルを吹かせた。
 この言葉が妻への最後の言葉になった。

 10分ほど走ったところで、車が峠道に差し掛かった。
 妻がいった。
「逆方向でしょ、あなた――」
 言葉が槍のように突き刺さった。
 直前に見えた《あづまや》の看板を通り過ぎ、そこから20メートルほど前方で、フットブレーキを使わずにサイドブレーキでスピンした。
「キーッ――!」
 梓の身体が一瞬、フワッと浮いた。
 身体と額がねじれるように左方向にスピンし、ドラッグレースのように思いっきりアクセルを踏んだ。
「アナタ――!」
 逆走して《あづまや》の看板を右手に折れる。

―PM1:26.

 石ころだらけの山道を突っ走り、右手に森林が見えたところで思いっきり突っ込んだ。
「ドーン――!」
 ぶつかった老木が見るも無残に、上下真っ二つに折れた。
「キャー――!」
 恐怖に慄いた梓が、ろくろっくびのように首を吊り上げ、それから助手席のシートベルトを外そうとしたが、バックルが思うように掴めない。
 僕は大きく息を吐いた。
「あ、あ、アナ――」
 梓の言葉が途切れた。
 と、そのとき、助手席左の窓に、ヌメッとしたものが現われた。

(つづく)