女は前のめりになり、それからゆっくりと背中を後部座席のシートに宛がった。
 バックミラーに映った女の眼は、どことなく落ち着いていた。
「グーッ!」
 僕のお腹が5秒近くも鳴った。
「ご主人、お腹が空いてらっしゃるの?」
「えぇ―」
 赤面恐怖症の僕は、バックミラーで自分の顔を見た。
「あ、そうそう。そういえば、1週間前、この近くの山でバラバラになった女性の死体が見つかったんでしょ? 恐ろしいわね」
「そういえば、テレビで」
 妻が力なく言った。
「怨恨かしら」
 詮索好きの中年女性が、やたら鼻についた。
 信号が青になり、僕は返事をするまでもなく、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
 街中から山手の住宅街に向かう登り勾配を、セコンドからサードにギアチェンジし、法定速度で上がっていく。
 目的地のテニスコートは、眼前に広がる銀杏並木を500メートルほど走った所にあるが、今日はやけに遠くに感じた。

 暫らくしてゴルフ場が左手に見え、道路を挟んだ右手に、テニスクラブの緑の建物が見えてきた。
「もう着きますよ」
「やっぱり、奥さんが心配だわ。私もご一緒に」
 僕はバックミラー越しに女を睨んだ。
 光の加減だろうか、女の両目が赤く輝いた様に見えた。
「ご心配なく。後は私が―」
「そうですか?」
 女は苛立ったように、唇を舐めた。
 右手にコートの入り口が見え、ハンドルを右に大きく切った。
 砂利道の音が車体から身体に伝わり、透き通るように頭脳に届いた。
「ありがとう。お大事に」
 女は妻に一礼して、車から降りた。
 僕は妻に眼を遣った。まだお腹が痛むらしい。
 転げ落ちたリップスティックを拾うよう妻に頼まれ、足元を見たあと梓のシートの下に顔を突っ込んだ。お菓子の食べかすを掻き分け、ものの10秒ほどで偶然直立していたリップスティックを見つけた。
 少し頭に血が上り、それからクラブハウスの方向に眼を遣った。

―視界から女が忽然と消えた。

 車からクラブハウスまでの距離、約20メートル。…小太りの50代半ばの中年女性。
「どうかなさったの、あなた」