「バタン!」
 後部座席のドアが、勢いよく締まった。
 惜しみなく厚化粧した50代半ばの女性が、バックミラー越しに飛び込んできた。
「ヨイショ、っと」
 乗せたくないと、こんなに思ったことはなかった。
「ご主人、ごめんなさいね。…あ、奥さんも」
「いーえ、とんでもないです」
 左隣に座る妻の梓が俯き加減で返事した。
 厚化粧女には、不似合いなブランドバッグが右肩からぶら下がっている。
 見下しているわけではないが、僕が知る限り、外見の美の意味を錯覚している年配女性が多いのは事実だ。
「お待ちになられました?」
 僕は愛想で訊いた。
「今、来たばかりですよ。わざわざテニスコートまで送って頂くなんて…奥さんのお言葉に甘えちゃって」
 顔面を思いっきり僕の左肩に近づけてきた。
 ハンドルを握った手に痺れが走る。
「いつもならベンツで行くんですけど、何やらメンテナンスとかで、ディーラーに預けたままに」
 10年前なら、如何にも嫌味な発言に聞こえただろうが、今では低金利で買える世の中、驚くほどの自慢話でもなくなった。
「あれ? 奥さん、どうなされたの?」
 女が、心配そうに梓を見た。
「ちょっと、お腹が痛むようで、テニスコートに着いたら、すぐ病院に連れて行きます」
 33歳の梓とは半年前に結婚。彼女にとっては初婚になるが、僕自身はといえば、夫婦生活がどんなものかは十分承知していた。
 車に乗るなり、お腹がシクシクと痛みだしたと、妻の様態を手短に女に説明した。
「このまま病院に行きましょ」
「大丈夫です…コートまで先にお送りします。それからその足で―」
 交差点に入る手前、信号が黄色から赤になり、咄嗟にブレーキを踏んだ。