「初めまして、姫乃です。…えっと…おばあちゃん」
「敬語なんて使わなくていいから。それに姫乃は覚えてなくて当然だろうけど、姫乃が産まれてすぐに1度だけ、おじいちゃんと一緒に会いに行ったことがあるんだよ」
 初耳だった。当然のことながら、おじいちゃんの面影も何も覚えてなどいない。第一、物心つく前の記憶に頼るほうがおかしいのだが。
 それから家の中へと通され、おばあちゃんは俺が1週間自室として使う部屋へと案内してくれた。そこは、外から見たとき目に付いた縁側へと抜ける部屋。中は当然座敷で、部屋の隅には、開け放たれている縁側へと続く障子と向かい合う、上に電気スタンドの乗る古い木製の文机(ふづくえ)と、その机が置かれた障子とは部屋の正反対の場所にある障子の前に置かれた、何やら網のようなもの。
 …近くに川があるらしいけど、漁でもす るのか? 川で? まさか。だって、流れは緩やかで穏やかな深さもあまりない川だと聞いている。
 そんなことを悩みながら、先ず俺は部屋の隅に置かれた机の前に、背負っていたバッグを持って腰を下ろす。
 こんな日常とはかけ離れた片田舎にやってきても現実を突きつけられたようで悲しいが、このバッグの中に入っているのは、大量の参考書と問題集、そして3冊の分厚い辞書。これが、有名進学校入った『義務』だ。しかし、『義務』ばかりが多くて逆の『権利』は無いような気がする。
 常に頭へと知識を詰め込み続けなければ、未来に約束された場所への階段を踏み外す。けれど俺は苦だと思ったことは1度として皆無。それは、俺自身がこの環境を満更でもないと受け入れている証拠なのだろう。
 俺が大量の勉強道具がこれでもかと詰め込まれたバッグを机へと持ってきたのは、中を整理する為でも、増してや着いて早々勉強をする為でもない。唯、勉強道具は勉強する場所にと思っただけだ。邪魔にならないよう机の隣にバッグを立て掛ける。
 …ここに腰を下ろした理由がもうひとつ。部屋に入って中を見回したときから気になっていた。文机の上には電気スタンドの他に、青色のシャーペンと、使い始めたばかりの真新しい消しゴム…そして、俺にとっては懐かしい中学の総復習問題集…。それの表紙にはでかでかと『総復習・数学』と書かれている。