「…起きてる…?」
 小さな小さな声が聞こえて、俺はただ閉じていただけの目を開いた。
 縁側へと抜ける障子とは反対側にある襖1枚隔てた向こうの部屋から聞こえる、
「…姫…?」
…小さな小さな、要の声…。
 俺は思わず出そうになった欠伸(あくび)を懸命に噛み潰し、
「起きてるよ」
そう答えた。
 夜、昼間のセミの声に取って代わるのは蛙や虫の鳴き声。毎晩そんなに気にならなかったのに、今日はなぜか、いつもよりやけに大きい気がする。
「…ごめんね…」
 要が、相変わらずか細い声でそう言った。
「私、姫のこと困らせちゃったよね。ごめん、ごめんね…」
 …泣いてる…。
 要が、泣いてる。
「…怒ってるよね…?」
 今日は、もう、
「…怒ってない。だから、泣かなくてもいいよ」
気づいてないフリなんてしない。
 しばしの沈黙の後、まだ少し震える声で、要は言った。
「…そっち、行ってもいい…?」
「…うん」
 ゆっくりと襖が開くと、そこには、枕を持った要が立っていた。
 障子を通して差し込んでくる強い強い月光に照らされる要の肌は、いつもにも増して白く輝く。まるで、今にも透け、消えてしまうかと思う程に…。
 俺が体を起こすと、要は、蚊帳をめくって中に入り、隣に腰を下ろした。障子側へと要の為に寄ってやる。
 今日はいつもの半分のひとり分の布団の上に枕を並べ、要は、上目遣いに俺を見た。そしてもう1度、
「…ごめんね…」
そう言った。
 きっと拭い忘れたのだろう、今日俺が手を上げてしまった要の左頬には、一筋、涙の跡。それを、右手で拭ってやりながら、俺は微笑った。微笑って、同じ右手で要の頭を撫でる。
「…俺こそごめん」
 俺が手を置いていたままの小さな頭はブンブンと左右に大きく振られ…。
「私がわがまま言ったんだもん。姫は謝らないで、姫は何も悪くない」
 痛かった?―――そう訊くと、要はまた首を振る。
 驚いただけ―――ようやく、要が微笑った。
 その晩、隣で先に寝息を立て始めた要の横顔に、浅く、優しいキスをした。