…カタン…カタン…カタタン…カタ…カタン…。
「姫。姫。そろそろ着くから用意しなさい」
「ん――…」
 列車の中には自分たち2人以外には誰も乗っていない。もうひとつの車両が前方を走ってはいるけれど、そっちにも人影はなく…。
 当然だ。
 コレは、とある県の……何ていったっけ……まぁ、かなり細かなところまでセコく問題を出してくる地理のセンセーも知らないだろう、山奥にある小さな小さな母の故郷である片田舎には、1日たった1往復の2回しか停車しない鈍行。廃線になっていないのが不思議なくらいで、人が乗っていなくて当然なのだ。
『次は……御忘れ物などございませんよう…』
「ほら、姫。行くわよ。姫乃(ひめの)」
 窓の外に見えるのは、木、木、木、木、木…たまに見える川…そしてまた、木、木、木、木、木…。
「ん…」
 ―――立ち上がると、列車は、駅に入るためにスピードを落とした―――。
 『姫乃』。愛称『姫』。
 自分は別に、姓も含め『上月姫乃(こうづきひめの)』という名は嫌でもないし不足もない。 名前は関係ないのだ。問題は、人間にあると思う。
 他の人にとって『イイヤツ』であれば可愛がってくれるし、逆に変わった名前のほうが親しまれやすい。要は、社会の中で『自分』という存在がどう映るかだ。
 …俺はもう、その社会の中で『自分』を手に入れ、男にとっては変わった『姫』という愛称で慕われている。
 列車から降りると、車内では窓が開き冷房も効いていて涼しかった為、一気に汗をかき始めた。…セミの声がやけに煩い…。
「ここからは少し歩くわ」
 …母さんがそう言って20分。1週間分の荷物の入ったスポーツバッグを肩に、そしてもうひとつ…背負っていてさえ重いと感じるバッグを背に、この炎天下、木陰ひとつない、舗装されていない陽炎に揺れる細い道を歩き、今は、ほとんど森に近い林の中の、同じく舗装されていない急な坂道を汗だくになりながら無心に登り続けている。