僕はその手をそっと握ることしかできなかった

けど、紙の上では悲惨な点数を残している。

剣道のみでその能力が発揮されているらしい。

天は二物を与えるというけど、彼女はまさにそれに当て嵌まった。

天才と呼ばれても驕ることも気取ることもなく、誰とも仲が良かった。

二重のパッチリとした瞳を縁取る睫毛は長くて艶めいた唇が弧を描くと誰もが見とれた。
白い肌と、バランスのとれた身体はモデルのよう。

誰もが憧れる存在、それが空撫さんだ。

全てを持っていると誰もに思われている空撫さんが本当に欲しいものが手に入らないことを知っているのは多分ボクだけだ。


「今日、少し残れ。もうひと勝負だ」

「良いよ」


あぁ。

今の貴女の顔はとても幸せそうなのに、その顔がすぐに消えてしまうんだ。
「翔真くん、空撫ちゃん」


幸せの終わりはいとも簡単に訪れるものだ。


「美朝、どうした?」


藤宮美朝(ふじみやみあさ)さん

二人の幼なじみで、多分副部長は彼女が好きだ。

副部長が美朝さんの元に行ってしまうと、空撫さんの顔が哀しそうに変わる。

空撫さんは副部長のことが好きなんだ。ずっとずっと前から。

それを微塵も出すことのない空撫さんの想いに気づいているのはボクだけだと思う。
幼なじみの二人は、空撫さんの想いに気づくことも知ろうともしていない。

ボクはこれ以上空撫さんの哀しい顔を見たくなくて、彼女の元へ向かった。


「ボクと試合してもらえますか?」

「うん。良いよ」

すぐに笑顔に戻って、面をつけてボクと対峙してくれた。


「手加減しないよ」


本当は空撫さんとは試合したくない。

怖いから。
でもあの顔のまま空撫さんを見るよりはずっと良い。

試合になんてなるわけもなく、ボクはあっさりと一太刀で、負けてしまった。

「椎名くんちゃんと相手を見ないと。でも、椎名くんの小手は良い武器になると思うよ」

「ありがとうございます」

ニコニコと笑う空撫さんはすごく可愛い。

笑顔が凄く似合う。


「空撫、部活終わりは暇か?」

副部長が戻ってきた。

「うん…」

「美朝が弟の誕生日プレゼントを買いたいから一緒に選んで欲しいって。お前にも一緒に来て欲しいって」

「…良いよ」

空撫さんは自主練は?とかなんて言葉は絶対に言わない。
副部長と美朝さんは買い物に行くとき必ず空撫さんを誘う。

二人きりになれない二人は、空撫さんを間に置いて行動する。

二人の前では、明るく大雑把な幼なじみを空撫さんは演じている。

二人の前ではピエロを演じていることを知っている。

本当は行きたいくないのに、二人を気遣い行くと言ってしまう空撫さんの心は分かる気がした。

好きな人のために何かしたい気持ち。
好きな人が自分ではない人と楽しそうにしているところを見たくない気持ち。

矛盾していてもそうせずにはいられないのだろう。

空撫さんは優し過ぎる。

人のために自分を後回しにしてしまう。

さりげない気配りに誰も気づかないほどだ。

副部長たちは空撫さんの優しさに甘えすぎだ。

それを知っているのに、ボクは何もできないのが辛かった。
空撫さんは副部長たちと何かあったとしても毎日を何事もないように過ごしている。

そんなある日。

ボクは彼女の新しい一面を知ることになる。

部活のない日。

ボクは資料室に教材を返しに行った帰り、音楽室の前を通るとピアの音が聞こえた。

ふと、覗くとピアのを弾いているのは空撫さんだった。

ゆっくりと身体を揺らしながら弾いている姿は、何て表現したら良いか分からなかった。

目を細めて、鍵盤を見つめる。

薄く開いた唇は囁く様に微かに動いている。

夕日に照らされた髪は、日が透けて輝いているように見える。
「あれ?椎名くんどうしたの?」


空撫さんい見とれていると、突然名前を呼ばれて現実に戻った。

「はい!すいません!綺麗だったのでつい、ガン見してしまいました」

「はい?何で謝るの?」

「えっ?あのえっと」

歯切れの悪いボクに空撫さんは変なのと笑い出した。

そうだ。

綺麗だったんだ。

妙に納得してしまい、ボクは音楽室の中に入った。

「空撫さんピアノ弾けたんですね」

「5歳の頃から習ってるんだ」

「とても上手ですね」


ボクが素直に感想を述べると嬉しそうに笑ってくれた。

「今度、コンクールに出るんだ」

「そうなんですか!すごいですね」

「うちの家族みんな音楽やってんの。父さんはサックス、母さんはチェロ。じいちゃんは指揮者、望月勇って知ってる?」

ボクでも知っている有名な人だ。