僕はその手をそっと握ることしかできなかった

それから空撫さんは何も無かったかのように学校生活を送っている。

けれど、ボーっとしている時も多く、何かおかしい。

「空撫さん、大丈夫ですか?」

「えっ、何が?」

堪りかねて声をかけた。

「お弁当、全然食べてないじゃないですか」

空撫さんは好き嫌いが多いらしく、昼くらいは自分の好きなものだけを食べたいからと自分でお弁当を作ってきていた。

好きなものだけを詰めている弁当も全く減っていない。

「んーどれから食べようか迷ってただけだよ」

と空撫さんはいうけど、弁当を開けて十五分も悩む人なんていない。

「良かったらこれ食べてください」

たまたま持っていたグレープのキャンディを机の上に置いた。

「ありがと」

そこで、ようやく空撫さんは卵焼きを食べた。

けれど、その日の放課後、空撫さんは倒れてしまった。

後輩への指導中に、突然。
「望月先輩、望月先輩」

「どうした!」

部長と副部長もかけよって来た。

「望月先輩が急に倒れて」

指導を受けていた一年生は泣きそうに目を潤ませていた。

「とりあえず、保健室に運ぶ。誰か、保健医連れて来い」

保健医の指示を受けて、副部長が空撫さんを抱き上げて、保健室へ運んだ。

それから、しばらくして副部長が戻ってきた。

「空撫は大丈夫か?」

部長に報告するところをボクたちは黙って来ていた。

「脱水症状と貧血、睡眠不足もあるかもって。ったく、すまねぇ、今日は空撫は休みにさせてくれ」

「もちろんだ。空撫は女子だってこと失念しちまう。オレの責任だ」

「いや。部長のせいじゃねぇよ。空撫の無茶は今に始まったことじゃねぇ」

それだけじゃない理由を知っているのはボクだけだ。



「えっ!カナちゃん倒れたの?大変じゃない!」

「あぁ、空撫の荷物とオレの荷物、持ってきてもらえるか?」

「分かった」

そこでボクは、どういうわけか。

「ボクも手伝います。藤宮さんだけじゃ荷物持ちきれないと思います」
と申し出ていた。

「ありがとう椎名君。翔真くん、保健室で待っててね」

ボクは、美朝さんと一緒に、部室棟に向かった。

「美朝さん、空撫さんの制服は女子剣道部のロッカーにあるので」

「そうよね。空撫ちゃんは女の子だものね。小さい時は水着に着替える時も一緒だったから、今も同じなのか持って思い違いしちゃった。

美朝さんは自嘲する様に笑って、女子の部室に入って行った。

いつも一緒にいても気付かないことはあるんだ。

けれどそれはとても残酷なんだと思った。

着替え、沢田副部長の荷物を持って部室を出ると、美朝さんはオロオロしながら、ボクを待っていた。

「どうしました?」

「あの、空撫ちゃんのバックがないの。制服しかなくて」

「空撫さんはバックを教室においているかもしれませんよ」

「そうよね。教室よね。私ってどうして、一辺通りの考えか確か出来ないのかしら。カナちゃんにも翔真くんにもよく笑われるのよ」

そう笑う美朝さんは慎ましやかで可愛らしかった。

空撫さんも美朝は天然で可愛いと言っていたことを思い出した。

「ちょっと教室に行って来ますね。椎名くんは先に保健室に戻っててください」

「はい」

ボクは一人で保健室に戻った。
ドアを開けようとしたとき、副部長の声が聞こえた。

「空撫、最近おかしいぞ。ボーっとしてるかと思えばテンション高くなったり、メシもろくに食ってねぇし」

驚いた。ボクだけが気付いていると思ってたのに。

恋人に現を抜かしているかと思えば、ボクが思っている以上に副部長は空撫さんのことを見ていたらしい。

「別に何でもないし」

「何でもなくねぇよ。オレに出来ることがあったら何でもしてやる。だから話せよ!悩みとかあるんだろ」

いつも空撫さんに厳しい副部長の声が優しさを含んでいる。

本当に空撫さんを心配しているんだ。

「お前が元気ないと、美朝も元気がなくなる」

「そりゃあ嬉しいなぁ。何でもしてくれるんだぁ」

ドア越しでも分かる。空撫さんの声が低く冷めたものに聞こえた。

副部長は、空撫さんの地雷を踏んでしまった。

美朝さんのためという、それだけの気持ちが空撫さんを深く傷つけるということを副部長は知らない。

「じゃあ、ヤろうよ」

「は?」

「だから、ヤろうって言ってんの。ベッドあるし」

「お前!何言ってんだよ」

「男なら分かれよ!エッチしようって言ってんの!何でもしてくれるんでしょ」
「バカ!何脱いでんだよ」

ドア越しからでも、布の擦れる音が聞こえた。

「何も出来ないじゃん。嘘つき」

「違う!オレは本当に何でも」

「口だけのくせに」

「違うつってんだろ!」

「じゃあ、私を好きになれって言ったらなるの!」

「空撫?」

副部長はようやく気付いたようだ。

そしてもう一人。

「空撫ちゃん」

美朝さんが空撫さんの荷物を持って立ちすくんでいた。

「大嫌い」

空撫さんがいきなりドアを開けた。

胸元が肌蹴て、紺色の下着を見てしまった。

凝視してしまった。

男の性が恨めしい。

ボクたち三人は何も言うことが出来なかった。

そしてことは大きく動いた。
翌日。

空撫さんはいつも通り朝練に出ていた。

迷いのない剣筋は他を圧倒していた。

副部長、相手でもそれあ変わらない。

いや、今日はいつも以上に激しく思えた。

ドンという鈍い音が聞こえた。

全員の目が音のするほうに向く。

副部長が通常では有り得ない場所で倒れていた。

対する、空撫さんは試合開始の位置から全く動いてはいない。

「空撫、お前何を・・・」

「ただの突きじゃない。ただの」

淡々とした声が、道場に響いた。

朝練の終わり、部長が空撫さんを呼んだ。

全員の前で部長が口を開いた。

「空撫が、本日を持って、剣道部を去ることになった。残念なことだが、空撫の未来を快く送り出してやろうじゃないか」

「みんな、今までありがとう」

誰もが言葉を発せないでいた。

でも部長が、拍手を空撫さんに贈ると、みんなそれに倣って拍手をした。

沢田副部長だけはずっと、空撫さんを睨んでいた。
「空撫どういうことだ」

「沢田くん、聞いてなかったの?部活辞めるって言ったの。yousee?」

「何で辞めるかって聞いてんだよ」

「沢田くんには関係ないよ」

道場の入り口で、二人はもめている。

もめていると言うより、沢田副部長が一方的にいきり立っている。

「お前な、男にフラれたからって、辞めることねぇだろ」

その言葉に空撫さんの目つきが変わる。

胴着の襟元をぐっと締め上げた。

「自惚れてんじゃねぇよ。男にフラれたぐらいでだと、上から物言ってんじゃねぇよ」

ドンと、沢田副部長を突き飛ばして、空撫さんは出て行った。

「大丈夫ですか?」

オレは、副部長に声をかけた。

「アイツ、何を考えてやがる」

沢田副部長は苦しそうに、眉を寄せて、床を叩いた。

空撫さんが何を考えてるかなんて、誰にも分からなかった。

そして、ボクらは再び、空撫さんに驚かされることになる。
HRの時間。

担任が空撫さんを前に呼んだ。

「本日付で、望月が留学することになった。卒業資格は与えられるが、みんなと一緒に勉強するのは、今日で最後だ。望月に言いたいことがある奴、今日のうちに言っとけ」

「今までお世話になりました。告白、決闘何でも受け付けます」

クラス全員が呆気に取られた。

一番、驚いているのが、副部長と美朝さんだろう。

ずっと一緒にいたのに、何も伝えられなかったことはショックだったはずだ。

「一時間目は、望月のピアノを聞かせてもらえることになった。音楽室に移動しろ」

みんな、担任の指示で、教室を出て行く。

「空撫」

教室を出ようとする空撫さんを副部長が止めた。

「またぁ?何の御用?」

「空撫ちゃん、どこ行っちゃうの」

美朝さんが聞くと、空撫さんは音楽室がある方向を指差した。

「先生、言ってたでしょ。ピアノ聞かせてもらうって。フランスの音楽学校に留学するの。おじいちゃんの母校」

「カナちゃん、ピアノを」

「お前、辞めたんじゃなかったのか」

「やっぱり気付いてなかったみたいだね。ずっと続けてたよ。毎日、弾いてたのピアノ」

空撫さんは少し淋しげな声を出した。

「十八才になるまでに、決めろって言われてた。ピアノか剣道か」


「ピアノを選んだってのか!オレとの約束はどうなる?約束しただろ、剣道で全国制覇するって言ったじゃねぇか」

「約束、最初に破ったのアンタでしょ。私にばっかり約束守れなんてズルイこと言うな色ボケ男」

「オレがいつ約束を破ったってんだ」

「沢田くん、最低」

空撫さんは低い声を出して、沢田さんを睨んだ。

居た堪れない気持ちになった。

「ヒントをやる。二人が幸せになった日、私はピアノを選んだ。沢田君が約束をやぶらなかったら、沢田くんとの約束ちゃんと守ってたかもね」

周囲に誰も寄せ付けないオーラを放っているようで、空撫さんには近づきがたく、それ以上何も言わず、教室を出て行った。

「翔真くん、空撫ちゃんと何があったの?」

美朝さんが尋ねても、沢田副部長は何も答えない。

青褪めた顔を片手で押さえて、荒い呼吸を繰り返していた。

ようやく、彼は自分の過ちを悟ったんだ。

ほんの少しの配慮だったんだ。

行けないとメールや電話すれば、少しは何か変わったかもしれない。

空撫さんが弾いたのは誰もが知っている、キラキラ星、そしてエリーゼのために。最後に別れの曲だった。

どれも、素晴らしい演奏だった。

心に染み入るような演奏は、クラス全員の心の中に深く刻まれた。

二人にもきっと。