僕はその手をそっと握ることしかできなかった

二人で教室に戻った。

沢田副部長は珍しく、一人で自分の席に座っていた。

夕暮れに佇むあの人は、絵になっていて確かにカッコイイと思った。

空撫さんが好きになるのも分かる気がする。

彼女は容姿だけであの人を好きになったわけではないだろうけど。

ボクは教室の外で彼女を見守った。

「あのさ、今度コンクールでるんだ。ピアノの」

「ん・・・そうか。頑張れよ」

いつもと違う、覇気のない声が聞こえてきた。

副部長にしては珍しい。

「今度の日曜日、暇か?予定入ってるか?」

たどたどしい、空撫さんの問いに、副部長はどこか空返事を繰り返していた。

「なぁ、聞いてるか?」

「あぁ、予定はないよ」

「じゃあさ、聞きにきてよ。ガイアホールでやってるから、十時に会場で待ってるからな」

「あぁ。分かった」

空撫さんは嬉しそうにしてたけど、沢田副部長は空撫さんを通り越して、どこか遠くを見ていた。

それが気になった。

コンクール当日。

ボクは空撫さんが気になって会場に向った。

あの時の沢田副部長を思い出すと、すごく嫌な予感がしたんだ。

空撫さんが指定した時間は十時。時間はとっくに過ぎている。

予感が当らないで欲しいと思いながら、会場に着くと嫌な予感は的中した。

空撫さんは会場の前にいた。

赤く細身のドレスが良く似合っていた。

メイクをしたせいで、大人びてまるで知らない人のように見えた。

「空撫さん、おはようございます」

「椎名君、おはよ」

いつも見たいな挨拶を返してくれるけど、その表情は冴えない。

「あの、副部長は?」

「ドタキャンってか、連絡も来ないけど」

最悪だ。あの人はなんてことを!

ボクはそっと空撫さんの手を握った。

小さくて、細い彼女の手は震えていた。

ボクには彼女を抱きしめてやることなんて出来ないから、せめて手だけ繋いであげたかった。

「椎名くん、ありがとう。ねぇ、演奏聴いていってよ」

「はい」

空撫さんはボクの手を引いて会場に入った。
空撫さんの演奏はすごかった。

ピアノの演奏ってこんなにも胸の奥を揺さぶり、魂を震わせるものだろうか。

演奏が終わった後の、スタンディングオーベーションってものを初めて見た。

全ての演奏が終わる前に、優勝者は決まっていた。

「空撫さん、すごかったです」

「ありがとう」

「ボク、感動しました。音楽なんて全然分からないんですけど、空撫さんの演奏がすごいってことは、分かりました。鳥肌が立ちました」

「大袈裟だよ」

空撫さんはすぐに、マスコミの人に囲まれて、それ以上話が出来なかった。

ボクは少しだけ彼女を見守ってから家路に着いた。
次の日、沢田副部長と美朝さんは一緒に教室に入ってきた。

空撫さんはいなかった。

いつも三人一緒だったから違和感を覚えた。

約束したのにドタキャンされた相手と朝から、顔を合わせたくないだろう。

それにしても遅すぎる。

HRも始まりそうな時間がきても、空撫さんは来ない。

ケータイを見ていると副部長がボクの席に来た。

「空撫から連絡ねぇか?」

「いや、一緒にいるから」

「ボクより副部長たちの方が一緒にいるじゃないですか」

自分でも驚くくらい声が低くなっていた。

一緒にいるって言っても、あんたたちは空撫さんを傷つけるだけだ。

ボクと副部長が睨み合っていると、担任が入ってきた。

HRの最初に空撫さんが休みだと伝えられた。

「望月は一週間ぐらい休むそうだ」

理由は家庭の都合だそうだ。

隣の副部長は、真っ直ぐ前を向いて話を聞いていた。

それからボクは副部長と美朝さんと口をきかなかった。

授業が終わって、部活に行こうとしているとケータイが鳴った。
「空撫さん?」

送信者には空撫さんの名前が表示されて、写真も添付されているメールだった。

開いて見ると

「なっ!」

ノートルダム教会と一緒に写っている空撫さんがいた。

文には、

ノートルダムデカイ!!

お土産買って帰るから

と書いてあった。

フランス・・・

空撫さんフランスにいるんだ。

「椎名、どうした」

ボクの声に沢田さんが反応してしまったようだ。

「何でもないです」

ケータイをカバンに押し込んでボクは教室を出た。

空撫さんが帰ってくるまで、沢山メールが送られてきた。

写真の中では彼女は笑っていたけど、どれも無理をしているように見えたのは気のせいだろうか?


「おはよー」

空撫さんは帰って来ても、誰にもフランスに行っていたことを言わなかった。

今まで通り、沢田副部長と美朝さんの三人で、一緒に登校してきた。

「椎名君、これ」

空撫さんはこっそりボクにお土産をくれた。

「マカロンだよ。おいしいよ」

「ありがとうございます」

ボクはそれをそっと机の中に入れた。

空撫さんは自分の席に着くと、うつ伏せになってしまった。

疲れているのだろう。

時差ボケかもしれない。

ボクは空撫さんをそっとしておいて欲しいと、願った。

多分、これから彼女には辛い宣告が伝えられるのだろうから。

それに耐えられる、体力を取り戻さなくてはならない。

けど、人生とはかなり残酷なんだ。

「カナちゃん、カナちゃん」

美朝さんが、空撫さんの肩を揺らして起そうとしている。

後には沢田さんもいた。

止めてくれ、空撫さんを傷つけないくれ

「ん」

空撫さんはゆっくりと身体を起こして二人をみた。

「どうしたの?なんかよう?」

眠そうに目を擦り二人を見つめた目はどこか虚ろだった。

「あのね、カナちゃん。私たち、付き合うことになったの」

ボクは空撫さんを見つめた。空撫さんはそっと笑みを浮かべた。

「おめでとう。二人ともまどろっこしいから心配したよ」

先々週の日曜日に翔真くんに告白されたの」

先々週の日曜日。ピアノコンサートだった日だ。

ボクは空撫さんから視線を外して、沢田副部長を見た。

彼はじっと空撫さんを見えていた。

その視線の意味を悟ることは出来なかった。

「良かったね。美朝、おめでとう」

「ありがとう。それでね、これからも一緒に登下校したいの。今日みたいに」

「美朝にとってもオレにとっても、お前は大切な幼馴染だからな」

沢田副部長はそれだけを言った。

副部長はずるい

恋人を手に入れただけでは飽き足らず、幼馴染も傍に居て欲しいと思ってる。

「良いよ。別に、家近いし、翔真と同じ部活だし、一緒に行くしかないんだから」

「そうだね。カナちゃんありがとう」

「じゃあ、もう寝るね」

空撫さんはそう言うとまたうつ伏せの体勢になった。

二人が離れてから、空撫さんの肩は震えているように見えた。

きっと泣いてる。声も出さずに。

空撫さんは午前中だけの授業を受けると、両親が迎えに来たらしくそのまま早退しまった。
それから空撫さんは何も無かったかのように学校生活を送っている。

けれど、ボーっとしている時も多く、何かおかしい。

「空撫さん、大丈夫ですか?」

「えっ、何が?」

堪りかねて声をかけた。

「お弁当、全然食べてないじゃないですか」

空撫さんは好き嫌いが多いらしく、昼くらいは自分の好きなものだけを食べたいからと自分でお弁当を作ってきていた。

好きなものだけを詰めている弁当も全く減っていない。

「んーどれから食べようか迷ってただけだよ」

と空撫さんはいうけど、弁当を開けて十五分も悩む人なんていない。

「良かったらこれ食べてください」

たまたま持っていたグレープのキャンディを机の上に置いた。

「ありがと」

そこで、ようやく空撫さんは卵焼きを食べた。

けれど、その日の放課後、空撫さんは倒れてしまった。

後輩への指導中に、突然。
「望月先輩、望月先輩」

「どうした!」

部長と副部長もかけよって来た。

「望月先輩が急に倒れて」

指導を受けていた一年生は泣きそうに目を潤ませていた。

「とりあえず、保健室に運ぶ。誰か、保健医連れて来い」

保健医の指示を受けて、副部長が空撫さんを抱き上げて、保健室へ運んだ。

それから、しばらくして副部長が戻ってきた。

「空撫は大丈夫か?」

部長に報告するところをボクたちは黙って来ていた。

「脱水症状と貧血、睡眠不足もあるかもって。ったく、すまねぇ、今日は空撫は休みにさせてくれ」

「もちろんだ。空撫は女子だってこと失念しちまう。オレの責任だ」

「いや。部長のせいじゃねぇよ。空撫の無茶は今に始まったことじゃねぇ」

それだけじゃない理由を知っているのはボクだけだ。



「えっ!カナちゃん倒れたの?大変じゃない!」

「あぁ、空撫の荷物とオレの荷物、持ってきてもらえるか?」

「分かった」

そこでボクは、どういうわけか。

「ボクも手伝います。藤宮さんだけじゃ荷物持ちきれないと思います」