僕はその手をそっと握ることしかできなかった

「一本!」


道場にこだまする一声に、道場の空気が緩む。

中心にいる二人の剣士は、礼をして下がった。


「また私の勝ちぃ」


面の奥から聞こえた声は、高く朗らかだ。

面を外すと、可愛らしい少女の顔が現れた。

望月空撫(もちづきかなで)さん。

女子剣道部のエース。

けれど、小さい頃から剣道を習っている彼女の実力は、同学年の女子相手では太刀打ちが出来ないため、特別に男子と練習していた。

「うるせぇよ」


彼女に負けた剣士も面を取り悪態をつくのは沢田翔真(さわだしょうま)副部長。

「翔真くんは脇が甘いんだよ。フェイントにも引っ掛かるし」
「ちっ」


舌打ちをしたい気持ちもわからなくもない。

副部長は強い。全国でもトップの実力者だ。

ボクも一本も取ったことがない。

そんな、副部長に勝ち続け、他の部員にも負けたことのない空撫さんが、どんなにアドバイスをしてくれてもボクらは勝てたことなのない。


彼女は天才と言う人種だった。

副部長曰く、無意識に物理学を理解してるのだと。

剣を合わせ、どこに力を入れれば人が簡単に動くかを無意識に理解しているらしい。
けど、紙の上では悲惨な点数を残している。

剣道のみでその能力が発揮されているらしい。

天は二物を与えるというけど、彼女はまさにそれに当て嵌まった。

天才と呼ばれても驕ることも気取ることもなく、誰とも仲が良かった。

二重のパッチリとした瞳を縁取る睫毛は長くて艶めいた唇が弧を描くと誰もが見とれた。
白い肌と、バランスのとれた身体はモデルのよう。

誰もが憧れる存在、それが空撫さんだ。

全てを持っていると誰もに思われている空撫さんが本当に欲しいものが手に入らないことを知っているのは多分ボクだけだ。


「今日、少し残れ。もうひと勝負だ」

「良いよ」


あぁ。

今の貴女の顔はとても幸せそうなのに、その顔がすぐに消えてしまうんだ。
「翔真くん、空撫ちゃん」


幸せの終わりはいとも簡単に訪れるものだ。


「美朝、どうした?」


藤宮美朝(ふじみやみあさ)さん

二人の幼なじみで、多分副部長は彼女が好きだ。

副部長が美朝さんの元に行ってしまうと、空撫さんの顔が哀しそうに変わる。

空撫さんは副部長のことが好きなんだ。ずっとずっと前から。

それを微塵も出すことのない空撫さんの想いに気づいているのはボクだけだと思う。
幼なじみの二人は、空撫さんの想いに気づくことも知ろうともしていない。

ボクはこれ以上空撫さんの哀しい顔を見たくなくて、彼女の元へ向かった。


「ボクと試合してもらえますか?」

「うん。良いよ」

すぐに笑顔に戻って、面をつけてボクと対峙してくれた。


「手加減しないよ」


本当は空撫さんとは試合したくない。

怖いから。