「……して、」
「え?」
「どうして戻ってきたの!?」
ネクタイがほどかれて自由になり、
あたしはかけられた上着を先生に投げ返した。
「どうしてあのまま帰らなかったの!!」
「……そんなもん、おまえの様子がおかしかったからに決まってるだろうがっ!!」
なぜあたしが怒っているのか、先生には理解できないのだろう。
せっかく助けてやったやつに怒鳴られて、
わけがわからないという顔をしている。
「俺が戻ってこなかったらおまえは、」
「あんなのあたしは慣れてるんだよ! 別に殴られようが犯されようが、どうだっていい!」
「慣れてるって……まさかあの男に」
「だからそんなことはどうだっていいの! それより先生だよ!」
あの男はなにをするか本当にわからない。
いままであいつに消されてきた人間は少なくないんだから。
金にものを言わせて、学校に圧力をかけるくらいのことは平気でする。
あたしが中学生の時、
あの男はそうやってあたしの担任を強制的に辞職に追いやった。
だから、
「先生も教師をやってられなくなるかもしれないんだよ……っ!」
あたしの本気の叫びに動かなくなった先生の横をすりぬけて、
あたしは床に転がっていたケータイに飛びついた。
リダイアルで電話をかける。
コール2回で相手が出た。
『シキ? どうかした?』
「幹生……っ!」
こんな時、頼れるのは幹生しかいなかった。
信用できるのは幹生だけで。
相手のこととか考えずに甘えられる相手は、幹生ただひとりだから。
「助けて幹生っ!!」
『助けてって……なにがあった?』
幹生の声が聴けただけで、涙があふれてくる。
「どうしよう幹生……先生が、先生が!」
『安藤? 安藤がなに。ちょっと落ち着いて』
「先生が……あいつに! どうしよう幹生!」
助けてと、どうしようという言葉をくり返すばかりのあたしに、
幹生は根気強く声をかけてくれて。
あたしはなんとか事情を話すことができた。
それから幹生がマンションに駆けつけてくれるまでの20分間。
あたしはひたすら泣いて震えて、
家財が散らばる床にうずくまっていた。
幹生が来てくれても、不安はなかなか消えなくて。
幹生にしがみついたまま長いこと泣いていた。
「手は打ったから大丈夫。心配しなくていいよ、シキ」
そう言われてようやく震えがおさまってきたところで、
安心からかひざからくずれ、意識を失った。
先生がすぐそばにいたはずなのに、
声もぬくもりも、遠かった。
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シキの父親がとんでもない男だと発覚した次の日。
シキは学校を休んだ。
何度電話をかけようとしたか。
何度彼女のマンションへ行こうとしたか。
しかしそのたび、茅島にすがりついて泣くシキの姿が頭に浮かんで、
俺の衝動を押しとどめた。
茅島幹生もその日シキと同じように欠席だと知り、
俺はしなくてもいい想像をしていらだちをつのらせた。
まさかあのジャズバーでシキと親しげにしていた男が、
うちの学校の生徒だったとは。
「アンドレも心配しなくていいよ。あの男にはきつめに脅しをかけておいたから。
ヤクザに脅されて監視までされたら、さすがにあのクソおやじも動けなくなるよ」
シキを抱いてなだめながら、茅島はそう言って。
挑発的に薄く笑っていた。
脅しがどうとか、ヤクザがどうとか。
奴の言っていた意味はよくわからなかったが、
たぶんシキの父親が俺になにかしてくるのではないかと心配して、
シキが取り乱していたことはなんとなく伝わってきた。
だが俺は、正直そんなことはどうでもよかった。
俺の教師としての立場が危うくなるかもしれないなんてことは、
その時本当にどうでもよかったんだ。
ただ俺は、ショックだった。
「あんなのあたしは慣れてるんだよ! 別に殴られようが犯されようが、どうだっていい!」
興奮したシキのあのセリフ。
どうやら彼女はこれまで、あの人間のクズのような父親に虐待されていたらしい。
それにもショックを受けたが、
それ以上に、父親にレイプされてきたことを「慣れている」と言い放った彼女に
強いショックを受けた。
シキの負っていた傷と闇は、
俺の想像を超えて深いものだったのだ。
出会ったころからどこか自身のことすべてに投げやりだった彼女。
その背景が見えた気がした。
そして、
自分のことなど気にもせず、余裕をなくして俺を心配した彼女に、胸を打たれた。
シキの愛をあの時、確かに感じたんだ。
それなのに。
彼女は俺の目の前で、他の男にすがりついて泣いていた。
どうして俺を頼らない。
どうして俺の腕の中で泣かない。
俺よりも茅島との絆の方が強い。
それを目の前でまざまざと見せつけられて、はらわたが煮えくりかえりそうだったが。
冷静になったいま、なんとなくわかる。
シキはたぶん、浅倉を憎んでいるからという理由だけで、
俺を惑わせているわけではない。
彼女は俺のことを多少なりとも愛してくれていて、
それと同じか、もしかしたらそれ以上に
俺のことを憎んでいるのだ。
憎まれる理由はわからない。
だがそう思うと妙に納得できた。
「先生おはようございまーす」
「アンドレおはよー!」
次々に声をかけてくる生徒たちに適当に返しながら、2年の教室に向かう。
今日は1限目、浅倉のクラスで授業だ。
目的の教室に入る前に、俺の足は自然と手前のクラスで止まった。
1日休んだシキだが、今日は登校している。
朝、茅島と一緒に並んで登校している姿を見たのだ。
「シキ……」
彼女は窓際の席で、頬杖をついて外を見ていた。
相変わらず見えない壁をはっている。
クラスメイトたちが皆、名取織羽という生徒を気にしてちらちらと視線を送っているのに、
彼女自身は気にもとめていないようだ。
シキはたぶん、自分で思っているよりもずっと、
人を惹きつける魅力を持っている。
存在感だけで言うなら、浅倉以上かもしれない。
そのことに、彼女は気づいていない。
「安藤先生、なにぼーっとしてるの?」
「え」
声をかけられ、はっとして前を向くと。
愛好会メンバーがそろって俺を囲んでいた。
浅倉はその少し後ろで、責めるような目で俺を見ていた。
「最近先生、変だよねー」
「うん。しょっちゅうぼーっとしてるしぃ」
「……気のせいだろ。ほら、教室入れ」
生徒たちを促しながら、最後にもう1度シキの方を振り返ったら、
あの猫を思わせる瞳が、じっと俺を見つめていた。
仕事をさぼって、俺は第2音楽室にいた。
ピアノの影に隠れて、火のついていない煙草をくわえため息。
「最近変……か」
生徒たちにも気づかれるくらい、俺の頭はひとつのことでいっぱいになっているようだ。
どうしてだろう。
どうして俺はこんなにも、シキのことを好きになってしまったのだろう。
はじめは、浅倉の代わりにして抱いていたのに。
生徒である浅倉に恋をするわけにはいかず、
同じ顔のシキで気持ちを発散させていただけなのに。
気づけば秘密の多い彼女に夢中になって。
彼女が俺をだましていたことを知っても、
24才ではなく16才だということがわかっても、
俺の気持ちは冷めることがなかった。
シキは俺を一体どうしたいのだろう。
そして俺は、シキとどうなりたいのだろうか。