足立区で生まれた私が物心ついた頃にはもう、母は風俗で働いていた。

私の家は東武線の竹ノ塚駅から自転車で15分ほど、団地より汚いアパートに母と2人で住んでいた。母が勤めていた店は人妻ヘルス・プリティーウーマンという名前で、駅前をキラキラ明るく照らしていた。

母はいつも夕方になると「プリ行ってくるよ」ってドアをバタン、閉めて出て行く。私は暗くなった部屋でぼんやりへたりこみ、ただ悲しくなる。プリという響きが私は嫌いだった。

小学生になると、忘れ物やお弁当を届けに母の店に時々行くようになった。一度店で、店長さんと母が呼ぶおじさんに母の履歴書を見せてもらったことがある。履歴書には目が充血し髪もボサボサな母がいて、経歴の項目には28歳・159・78・59・81とだけ書かれている。趣味特技の項目には母の字で「パイズリ・フェラチオ」とあり、下には赤ペンで2重線が引かれ男の字で「講習結果:マアマアソコソコ」と書かれている。私はよく分からないけどその特技はとても技術的で職人的なものなんだろうと思った。特技は人に評価してもらいはじめて特技となる。主観的な特技など存在しない。

いつだったか、母が西友で買い物中に万引きをして捕まったことがある。一緒にいた私は母が事務室に連れていかれ泣きじゃくるのをぼんやりと見ていた。事務室のおじさんは怒った顔をしてあちこちに電話をしていた。家に帰ると母は、もうしない、もうしないからね、今日はごめんね、ごめんなさいねと私に言ったが、私にはなんのことを言っているのかよくわからなかった。保護者としてわざわざ埼玉から呼び出された叔母は、母が出したお茶にも手をつけずに一言もしゃべらず、私たちのことをただうとましそうに見ていた。


私が小学6年生になった春、母は、性器にタバスコの瓶を突っ込まれて死んでいた。目は虚ろに見開き、精神はもうすっかり体から抜け落ちてしまっていた。もう生理も来て胸もふくらみはじめていた私は、タバスコしか身に着けていない母を見て、母は私の体と同じような部品を持つ女性で、今は感情のないただの塊になったんだなぁと、そうだったんだなぁ、とても不思議なことだなぁと、よく分からないけどなんだかとても納得した。