私が生まれたときには兄が5歳の愛され盛りで、私にとってのディズニーランドはつい最近までベビーカーの中のものでしかなかった。私は何も買ってもらえなかった代わりに、父の暴力の関心からも逃れた。隠れるように15年を過ごしていたが、高校受験に失敗して行く先がなくなったときにはじめて批判の対象となった。温泉と本当にヒマを持て余した人しかいかない博物館しかない山奥に逃げ出して、穏やかな生活を手に入れた。


ぼくが10歳の誕生日に買ってもらった天体望遠鏡は、父の八つ当たりにより1年たたずして燃えないゴミとして捨てられた。中学の時にワゴンセールの28センチのスニーカーを買ってきて怒鳴られた。外界とのつながりが欲しくて半年分のこづかいで買ったイヤホンラジオは1週間もたたないうちに見つかって破壊された。与えられた想像性は18年の全ての日々で消耗され、残りかすだけになっていた。ぼくはもう、上野の博物館にいっても何の関心も持てないだろう。東京に出たとき家族には一切連絡を取らないようにしていた。率直に言って、ぼくは家庭の面倒事に巻き込まれたくなかった。会社勤めの為引っ越すとき、ぼくはこれまで関係のあった女性や友人、そして家族の写真を全て捨てていた。




父が死ぬ前の日、私は将来夫となる男と、父に見つかったらお前はひどい目にあうだろうと話していた。私は客観的に見て蒸発していたし、蒸発娘をわざわざ差し出した挙句にくださいとお願いしにいくなんて、戦場にペンだけ持っていくようなものだ。父が死んだので私は円滑に結婚したが、夫は自動車整備の仕事をリストラとなり、雇ってくれる所などなかった。私は昔のつてでスナックを紹介してもらい、やがてオーナーに気に入られ隣町に新しく作った店のママとなった。いまにもボケがはじまりそうだった夫を給仕として雇った。何もできない夫だがカラオケだけは上手かったので、店を切り盛りしていく上である程度の役にはたった。