美紀は、ブラックジーンズに収納された長い脚をコンソールボックスに投げ出し、いやな役はすべてあいつにやらせればいいのだと、ひとりうなずき、リクライニングの背もたれを後方へ押遣った。
先ほど、「地蔵峠(じぞうとうげ)」という名をナビゲーション上で目にしたときから、奇妙で無気味な予感がしたのだ。たしかに地図では、長野市から上田市に抜ける最短距離として、ブルーのラインがナビ上にうねっていた。だが、この近道を抜けずとも、長野東インターから高速に乗れば、東京にすんなりと戻れるはずだったのだから。
八月十二日。正面からさすような紅蓮の陽の半身が山頂に隠れはじめ、車内の時計が午後五時を表示していた頃に、この惨劇の予兆が起きた。
ダークブラウンに塗装されたセダン、通称カナブンが、マラソンランナーの最後尾の選手よろしく、ぎりぎりの調子で山頂にさしかかった。すると不意に、ブスッ、ブスッと不機嫌な悲鳴をあげ、つんのめるようにタテ揺れを起こしたのだ。
研介が車にひかれた猫のような奇妙な声をあげた。
「ガ、ガソリンが、なくなった」
女の黒々とした瞳に、研介のうなだれた姿がうつった。イラつくほど猫背で、十本の指が奇妙なほど短い。いまさらながらだが、やはり、とりえなど見当たらない男だと、腹が立った。
美紀の脈は、鞭でうたれたサラブレッドのように速度を増した。血管のういた眼で男の左薬指をにらむと、結婚指輪は今日もはずされていた。二年前、有頂天に嵌めていたはずのマリッジ・リングが、夫の指から忽然と消えている、それが純粋に謎だった。
故意に外しているのか。それとも紛失したのだろうか? いや、自分に飽きたのかもしれない。
美紀はそれが、最近、とみに目に触れなくなったことをいぶかしく感じていた。ひょっとしたら、あのことを? と疑問を抱かずにはいられない。だが、カタツムリより愚鈍さを誇る研介の思考回路である。この男に限って気づくはずがない。わたしは巧くやっている。そう自分を庇護し、思考をよぎった不安を全て打ち消していた。