ペルシャ帝国のロス二世の後継者として、親類のオス一世が三代目の王位を継いだ。彼はアケメネス朝の首都、ペルセポリスを建国させた。ペルシャ帝国は、一二代目までの約二三0年間も統治していた。

 オス国王は、全国のペルシャ帝国を一二0の州に分かち地方軍事長官(サトラップ)を置いた。

さらに国道建設に着手し、宿場町(旅人を業とした町)や峠茶屋、道の駅を設けた。貨幣を統一し、国土の拡張をはかるのであった。

 オス国王は三人の大臣を配置した。ニルの孫息子ダルが任命された。オス国王にとってダルは、最も信頼のできる異教徒の家臣であった。それは、身内の家臣以上に信用していた。当然、彼をねたむ家臣や敵は多かった。

 家臣たちは、ダルにワナを仕掛けるための法律を制定した。オス国王以外を崇拝する者は、ライオンの穴に投じるというものだ。

それはオス国王といえども、法律の変更はできなかった。ダルはそれを知りつつ、「主」への祈りを平然とささげていた。ダルは逮捕され、ライオンの穴に投獄されてしまった。

自分で署名し制定した法令に対して、オス国王は悔やんだ。最も信頼できる部下を、死刑にしてしまったのだ。

 ダルは、ライオンをじっとにらみつけた。決して背を向けることはない。背中を見せれば、確実に襲われる。

ダルは、腰ベルトをほどき、それをムチにしてライオンを威嚇した。ダルは、ライオンの習性を熟知していたようだ。

 数日後、ダルは穴の中から出された。彼が無事に生還したことを、オス国王は大いに喜んだ。

激高したオス国王は、その家臣たちと家族をライオンが住む穴の中に放り投げた。冷静さを失った彼らは、ライオンに食べられてしまった。

「主」を心から信ずる者は、人でも猛獣でも我々を死に至らしめることはできないと、ダルは家臣たちを説き伏せた。

オス国王はアスター教を奨励していたが、それ以来、異国民の宗教を「信仰の自由」をさらに認めることにした。

 紀元前一七0年頃、セレウコス朝シリアのアンティウコス四世のもとで、ユダ人はまた迫害の受難に陥っていた。

この時代に書かれた「ダル書」は、ユダ人を勇気づけ励ますために出版された「聖書」と言われている。