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そしてぼんやりとさっきのことを思い出す。
「本当に聞き違いかなぁ。ニャーとドブスって、響きが全然違うのに」
でもお父さんもお母さんもちゃんと鳴き声を聞いているから、ドブスなわけがない。
「たまたまあたしの耳が変だっただけか」
きっとこんなことを深く考えても仕方ないんだ。
フウッと小さくため息をついて組んだ両手の上にあごを乗せる。
「イタッ」
ちょうどひじの所にシャーペンの先が当たったみたいで、チクッと痛みを感じた。
「あ、これ入院前に買ったおニュウのやつだ」
そのピンクの猫耳の付いたシャーペンを持って、なんとなくカチカチと芯を出す。
すると無性になにか書きたくなってきた。
「そうだ!」
ふと思い付いて机の引き出しから新品のピンクのノートを一冊取り出した。
お気に入りでなかなか使えなかったその猫の手形付きの可愛いノートを一枚めくる。
「モモ、『ドブス』……、っと」
あたしは退院の記念に今日から日記を付けることにした。
もともと飽きっぽくて三日坊主になるかもしれないけど、急になにか新しいことを始めたくて仕方なかった。
すぐに終わるかもしれないと思っていた日記が、もう一年も続いている。
だいたいが意外と辛かった松葉杖生活や、ギブスを外す時のカッターが怖かったこと、そしてリハビリでしごかれたことの記録。
最初は事故のことをすごい体験をしたと思っていたけど、今は思い出したくもない出来事になってしまった。
だから日記帳を開くとたまに嫌な気分になる時がある。
それでもずっとやめなかった理由は。
あの日だけじゃ終わらなかった毎日のモモの一言があったから。
多分それがなかったら、とっくに書かなくなっていた。
きっと、書けなくなっていた。
あたしはもともと細かいことを気にしない元気な人間なはずで、入院中からケラケラ笑ってばかりいて。
大怪我をしたけどそれでクヨクヨするのはらしくないって、自分でもそう思っていた。
でも。
そのせいで泣き言を言える場所がどこにあるのか、わからなくなってしまっていた。
「あーっ、遅刻するっ!タク邪魔だからどけてよっ」
「ゲホッゴホッ、風邪を引いちゃった弟に冷たくしたら……、バチが当ーたーるーよおー」
具合が悪いくせにご飯だけはちゃんと居間に食べに来るタクをはね退けて、あたしはトーストにかぶり付いた。
「うるひゃいっ、病人は部屋で寝てなひゃいよっ。ひかも朝からなんであんたらけカレー食べてんのよっ」
がつがつカレーをほお張るタクをジロッと見たあと、急いで口の中のトーストを牛乳で流し込む。
「仕方ないだろ。これだけは食えるんだから」
たしかにタクはここんとこカレーばっかだったけど、それしか食べれなかったってわけね。
「……でもなんでカレーなの?」
「気分、かな?」
オデコに乾いた冷えピタを張り付けたタクが、クイッと首を傾げている。
「ほらミユ、時間大丈夫なの?」
お母さんが指差した壁掛け時計を見ると、家を出る時間を少し過ぎていた。
「うきゃーっ、ヤバイヤバイヤバイ!モモッ、みんなっ、行ってきますっ」
すっかり治った足で玄関に走ったあたしの背後から、お母さんの声が聞こえてくる。
「ミユ!車には気を付けるのよ!」
「はあーいっ」
手早くローファーを履いたあたしは、フワフワに毛の生えた白い猫のキーホルダーの付いたカバンを持って、勢いよくドアを飛び出した。
一年前グシャグシャに潰れてしまったお気にの自転車と全く同じ自転車で、暑い風を切って走る。
もちろん車には十分気を付けて。
おかげで学校にはなんとか間に合った。
「ミーユ、おはよー」
教室に駆け込んだあたしを見付けた中一からずっと同じクラスのなっちゃんが、笑顔で近付いてくる。
「なっちゃん、おはよっ」