デビル裕一記念病院の院長室に精神科部長・菱沼と精神科医・松本、看護婦長の成田がやってきたのは昼食後まもなくの時間だった。
院長の長谷川は、入って来た三人の顔を見ただけで、
(なにかトラブルがあったな)
と察しがついた。彼はデスクの上に広げていた読みかけの本「甲殻類のやる気」を一番下の引き出しにしまうと、三人の言葉を待たずに自分から口火を切った。
「大事か?」
院長の視線が自分に向けられているのを意識しながら、菱沼は言いづらそうに返答した。
「はい・・・と言いましても、まだ本当に大事になったのか、それとも大したこと無いことなのか、判断がつかないところで・・・」
「はっきりしないな。何があった?」
「つい先ほど、見回りの看護士が気づいたのですが、特別療養個室の患者が一名、いなくなってしまったのです」
「なんだと!?」
長谷川は思わず聞き返した。
デビル裕一記念病院で特別療養個室と呼ばれているそれは、著しい精神障害があり、自分や他人に物理的被害を及ぼす恐れが非常に高い患者が入る病室だ。
外から施錠されるその病室は、いわば医療的刑務所であった。
「施錠をし忘れたのか!?」
「いえ、鍵はかかっていました。昼食時までは確実に患者はいたのですが、最後に確認してから見回りまでの1時間の間に、忽然と消えてしまったのです」この場でただ一人の女性、成田があわてて病棟の管理責任をまかされている自分たち看護士に落ち度が無いことを説明した。
「本当に昼食のときは病室にいましたし、下膳もして食事を食べていることも、服薬も確認しています。食事から見回りまでの間も病棟から出て行った患者など、一人もいません。監視カメラで確認済みです」
「すぐに手のあいているスタッフで病室を確認しました。もちろん、布団とトイレ以外は何もない部屋ですから隠れる場所などありませんし、窓や天井が破られたりした跡もなかったのです。ただ、患者だけが、煙のように消えていなくなってしまったのです!」
この数年、患者の病状の問題は常日頃からあるにせよ、それ以外の問題らしい問題を起こすことなく現場を取り仕切ってきた成田は半ば悲鳴のように釈明をした。
「院長、成田看護婦長の説明に間違いはありません」若い精神科医の松本が、ベテラン看護婦を援護する。デビル病院は医師から看護士まである程度他で経験をつんだスタッフで構成されている。彼のような若い医師は、ここではめずらしい存在だった。
「いなくなった患者は僕の受け持ちで、毛利かずおという20代の男性患者です」
「松本くん、その、毛利さんというのは?」病気と病状の説明を、長谷川は求めた。
「重度のT病患者で、日常的に幻覚幻聴の症状があります。時にはきわめて暴力的内容の発言も聞かれ、錯乱して自分の体を壁に打ち付ける行為がありまして、特別室で対応しておりました」
「家族関係は?」
「本人は独身で、A市に両親がいます。本人の病状に、その、大変心痛されてか・・・」
どう言ったものか迷う松本の横から、彼の指導役である菱沼が口を挟んだ。
「家族の面会や連絡はほとんどありません。入院前、家族は本人の言動に恐怖を感じ、いつか彼が人を殺すのではないか、と心配していたようです。入院してから1年が経過した今では、彼との関わり自体を避けている様子があります。こちらからの定期の連絡には出られるのですが、形式的なやりとりしかありません」
菱沼の言葉に、長谷川は軽く頷いてみせた。患者と家族の関係が希薄であるほうが、今回は都合が良い。
「そうか。・・・なんにしても、話だけでは私もピンとこないな。病室を見に行こう」
長谷川が革張りの椅子から立ち上がった。
院長室を出た四人は、足早に病棟へ向かった。成田が先頭に立ち、エレベーターの扉を開けた。デビル病院のエレベーターは、IDカードの認証がなければ作動しないしくみになっている。病院のスタッフはそれを、ストラップで首にかけ、たいていは胸のポケットに収めるようにしていた。患者も面会者も、病院スタッフ同伴でなければエレベーターにも乗れないのだ。
特別療養病室がある5階に着く。階のフロアーのエレベーターを出た目の前にナースステーションがあり、漢字の日の字の形に設計された廊下の、真ん中の横棒の中ほどにあたる部分に配置されている。廊下を挟んでその反対側がエレベーターだ。病室へ続く四方向は透明の強化アクリルでできたドアで隔てられている。
成田がナースステーションにいた30代くらいの男の看護士に小さく頷きかけると、彼もまた頷き返した。成田はナースステーションの右隣のドアをIDカードで開けた。
彼らは、右手に病室を見ながら進んだ。左手は、共用トイレや倉庫などの設備になっている。病室の窓には柵がされ、重いドアーは廊下側から施錠されていた。
「ここです」
廊下が突き当たり左に折れる手前の、置くから2番目の病室で、成田は止まった。
4人は、柵の向こうの病室を見回した。折りたたまれた布団だけがたたみの上にぽつんと置かれている。入り口のすぐにある洗面所にも、手前の、入り口とは反対側にある、こちらから小窓で人のいるいないが確認できるトイレにも、患者はいなかった。
無言で立ち尽くしたいる4人に、右隣の部屋の男性患者が、
「ねえ、レコードが切れているようなんだけど。ベートーヴェンが反復横飛びをやめてしまった」
と柵にしがみつきながら話しかけてきた。
「黙れ!お前は何十年、ベートーヴェンに反復横飛びさせるつもりだ。ドイツ人にも休ませろ」
長谷川が、強い口調ながらまったく怒気を含ませずに言い返した。男性患者は「小鳥が楽譜を盗んだのがいけなかったのだ。先生も、止めてくれればよかったのに・・・」とぶつぶつ言いながら部屋の奥へと引っ込んでいった。
「彼とはね、私がまだ部長だった頃からの付き合いなんだよ。主治医も担当していたんだが、その頃から心の中のベートーヴェンに反復運動をさせ続けているんだ。大した精神力と忍耐力だよ。私も挑戦してみたが、5分が限界だったね」
長谷川が軽く笑う。彼の元患者が声をかけてきた以外では、別の病室からは彼らへのアクションはなかった。ただ、「あああ・・・」といったうめき声や、何といっているか聞き取れないような独り言だけが、柵の間から漏れていた。
4人は鍵を開けて特別療養病室に入ってみたが、状況は変わらなかった。
「確かに・・・窓や天井はやられてないな。畳の下はコンクリにフローリングが一枚張られているだけだし、ここから出られるはずもない」
長谷川はため息混じりに言ったあと、
「くそっ。私は少なくとも、この特別療養病室から退院者を出すつもりはないのに!」
と大声で付け足した。
「院長、そんな暴言を・・・」
部下の三人が、オロオロと長谷川に制止の手を伸ばしながらうろたえる。なおも長谷川は大声で、
「気にすることは無い。どうせ、この病棟の患者たちにはわからないんだ」
そして彼は、廊下に出て一番奥の病室の窓に向かい、「私がさっき、なんて言ったか聞こえたか?」と問いかけた。部屋の奥からは弱々しい声で「えい、えい、おー。赤信号しゅっぱーつ・・・」と返ってきた。
長谷川は三人のいる病室には戻らず廊下から、
「なっ。じゃあ今回の件は、担当医の松本くんにまかせるよ。松本くん、君が行方不明患者特別捜査本部長だ」
と、それだけ言い残し廊下を走り去っていった。
「やったー、昇進だー!」
松本はガッツポーズした。