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「おかね→商品→おかね」のときは、
商品とおかねは、
どちらも「価値」をあらわしているだけだった。

「価値」が違った姿をとっている、
だけだ。

違うのは…

…おかねは、
いつでもどこでも通じる姿…

…商品は、
それだけの使いみちの形をとって、
「価値」を示している姿…

…そういう違いが、
あるだけだ。

そして、
「富としての」流れでは、
「価値」が、
このふたつの姿のあいだを、
行ったり来たり、
するだけだ。

そうして動き回っていても、
「価値」は、
おかねは、
なくなってしまうことがない。

そんなわけで、
ひとがどうしようと関係なく、
勝手に、
決まった道すじを進みつづけるものになる。

そうして「価値」が増えつづける。

そのとき、
ふたつの姿が、
入れかわりあらわれて…

…そのそれぞれに、
目を向けると、
「富」とはおかねだ、
「富」とは商品だ、
などと、
見えてしまう。

だがほんとうのところは、
「価値」は、
このぐるぐる回る道すじの、
「主人」なのだ。