彼はそれ以上何も言わず、無言で、扉を閉めた。
 再び薄暗い室内。外からのわずかな明かりだけで浮かび上がる2人の姿は……やけに、幻想的で。

 目の前にいる薫は幻で、手を伸ばしたら消えてしまうんじゃないかって、思った。

「都、だよな?」

「……そう、だよ」

 先ほどまで爆発寸前だったんだ。一瞬で泣き顔を隠せるほど、器用な人間じゃない。
 今だって、薫が目の前にいるってことだけで……今すぐ胸に飛びついて泣きたいのに。

 彼は電気をつけようとはせず、ベッドに座っている私へ、一歩一歩、近づいてきて。
「泣いてるのか?」

「……泣いてないわよ」

 泣けない、泣くもんか。彼に自分の言葉で、ちゃんと伝えるまでは。
 本当は立ち上がって、彼を正面から見据えたかった。だけど、ベッドに座ってうつむいたままが精一杯の私は……声を震わせながら、切り出す。

「ねぇ、新谷氏……あんた、バカよ」

 唐突に言い放った言葉。だけど、私の前に立った彼は何も言わず……ただ、次の言葉を待つ。

「そう、大馬鹿なのよ……いつまで過去の恋愛を引きずってるの? そりゃあ、忘れろなんて言わない、そんな酷なこと、言える立場じゃないと思ってる」

 そう、君の過去は私に関係ないって思ってた。だから今まで踏み込まなかったし、あえて強く尋ねることもなかった。

 だけど、君が現在だけで「新谷薫」であるわけがない。君が君になった過去を知らないまま、この先、付き合っていけるわけがないんだ。
 そして、私は君のそんな過去を知って……もっと、君に近づきたいんだよ。

「だけどね、今の女に過去の女の影を重ねてどうするのよ? 情けないなぁ……これからもずっと、そうやって生きていくつもり?」

 もっと、君を好きになりたいんだよ。
 
 彼は、何も言わない。

 最後までちゃんと言えるかな? 我慢しきれずに涙がこぼれる。泣くな、まだ泣いちゃダメだ。泣いたら喋れなくなる、伝えられなくなる。もう少し、もう少しだから。
 私は歯を食いしばって、泣き出す自分を制御し続けた。