あたしは、身動き一つできなかった。

何か一言でも言葉を発したら、キラはナイフを握った手に更に力を込めそうで。


あたしにできることなんて、ただ涙を流しながら、薄ら笑いを浮かべるキラを見つめるだけで──






食洗機の音が途切れると、

外で、微かに人の足音がした。

すぐに話し声が聞こえてきて、それがソラと先輩だと分かる。



「2人が心配するよ、涙を拭いて」


キラはそう言うと立ち上がって、ナイフを元の果物籠へ戻した。


「さぁ、立って!」


何もなかったように、あたしに手を差し出すキラ。



あたしは、その手を払うと、自分の力で立ち上がった。

……足が、ううん体中が、今頃になってガクガク震えていたけれど。



「ただいま!」

玄関のドアが開き、先輩の明るい声が聞こえてくる。


キラは

「おかえりなさい!」

って。




いつもと変わらない弾んだ声でそういいながら、二人を迎えに玄関へ出て行った。









2階への階段は玄関の真正面、リビングの外にあった。

あたしがキッチンから動けずにいる間に、キラはソラをつれてそのまま2階の部屋へと上がっていく。


「ねえ、先輩とどんな話をしたのー?」

階段から聞こえてくるキラの声は、怖くなるくらい「普通」だった。



2人分のトントントン、っていう軽やかな足音はあっという間に小さくなって。

続いて、2人の部屋のドアが閉まる音──。




「──美夕ちゃん? どうしたの?」

はっと我に返ると、あたしの目の前には先輩がいた。


「片付けご苦労様。かなり疲れてるみたいだね?」

先輩は、少し腰をかがめてあたしの目線に合わせて、そう言ってくれた。


「……先輩」

「……美夕ちゃん、もしかして泣いてた?」




あたしは先輩の顔を見ることが出来なくて、俯いたまま、黙って首を横に振った。

「キラちゃんと、何かあったんだ?」

「いえ……大丈夫です」



先輩の温かい手があたしの頬に触れ、涙の跡を包み込む。

「こんなにしっかり涙の跡が残ってるのに」


先輩の声も、手も、あまりにも温かすぎて。
あたしの視界はまた涙で滲む。


美夕ちゃんのウソつき──。
先輩は、わざとからかうように、そう言ってくれた。



──どうしよう。



「いいよ、言いたくないことは聞かない。だから一度、部屋に帰ろう?」

そう言うと、先輩はあたしの返事を待たずにあたしの手をぐいっと引っ張った。




──先輩。

あたしに優しくしないで。

もう、あたしなんかに優しくしないで……。



「外はもう真っ暗だったよ──それでね」


外の様子を話しながら、
少し強引に、あたしの手を握って目の前を歩く先輩──


あたしはその手を、どうしても離すことが出来なかった。



部屋の鍵を開けると、先輩はあたしを先に部屋の中へ通してくれた。


少しためらいながらもあたしが数歩進むと、後ろから

「ドアは開けておくよ」

っていう先輩の声。


その声に振り返ってみると、先輩は入り口に屈みこんで、開けたままのドアが動いて閉まらないように、ドアストッパーで固定してくれているところだった。


「だから安心して。ほら、早くあっちに行って座ろう?」

先輩はあたしの肩を抱くと、奥へ進み、あたしを片側のベッドに座らせてくれた。

そして自分は、もうひとつのベッドに、あたしに向き合うように座る。


「キラちゃんと何かあったんだよね? ……俺には言えないこと?」


膝の上に肘をついて。
あたしの顔を覗き込みながら。

先輩はどこまでも優しかった。


「何もない、なんてウソついてもバレてるからね。美夕ちゃんのこと、こう見えてもよく分かってるつもりなんだから」


先輩は一呼吸置いて、続けた。


「──ソラのことだよね?」


『ソラ』って言う言葉を聞いただけで、あたしの肩がびくっと震える。


どうしよう……。


だけど先輩には隠し通せる気がしなくて、
ううん、隠しちゃいけない気がして、


あたしは黙ってうなずいた。


自分の気持ちに正直になると、あたしはどこかホッとしたみたいで。

やだ……また、目頭が熱くなってきた。


「キラちゃんから、きついこと言われたんだ?」


きついこと……

キラの口から次々と出た、信じられない言葉の数々が蘇ってくる。

『悲劇のヒロインぶっちゃって、ばっかみたい』
『こっぴどくフラれれば良かったのに』

そして、

『それ以上言ったら、私、死んじゃうよ?』

そう言いながら、どこか遠くを見つめるキラ。
そしてそんなキラの喉元で光るナイフ──


目をつぶると、ポロポロと、大粒の涙が落ちた。



「さっきの様子だと、キラちゃんがソラを手放すとは思えないし……前途多難だね」


「先輩、あたし……あたし……」

先輩に、何か伝えたいんだけど、でも、うまく言葉にならない。


先輩は、そんなあたしにそれ以上何も聞こうとはしなかった。

ただ、「もういいから、黙って」って、あたしの言葉を遮って。


「こんなに辛い思いをして……それでも、美夕ちゃんはソラが好きなんだね」

そんな言葉と小さなため息がひとつ。


顔を上げると、先輩は穏やかで、でもどこか寂しそうな顔であたしを見つめていた。





「まぁ、仕方ないか」

そう言って、少し困ったような顔をする先輩。

「俺、昼間はいきなりソラのことを聞かされて、めちゃくちゃ動揺して、美夕ちゃんにもキツイことを言っちゃったけど……こればっかりはね」


仕方ないよ。

まるで自分に言い聞かせるように、先輩は繰り返し呟いた。




──あたし、どうして先輩じゃ駄目なんだろう?


こんなに優しくて

こんなにあたしを大事に想ってくれるのに。



どうしてあたしは、こんなときにもソラの顔を思い出しちゃうんだろう……。




「隣に座ってもいい?」

あたしの「はい」って言う返事を確認してから、先輩はゆっくりと立ち上がって、あたしの隣に移動する。

先輩がベッドに腰を落とすと、ベッドのスプリングがキイって音を立てて軋んだ。


先輩は、黙っていた。

ただあたしの隣で頬杖をついて、じっとあたしが泣き止むのを待ってくれて。





……それに気付いたのは、沈黙がずっと続いたその後、

ふと先輩のほうに視線を移した時のことだった。


「……先輩?」


あたしが目にしたのは、先輩の右手。

その甲は、鮮やかな赤に染まっていた。


「あ、これ?」

先輩は自分の手を目線の高さまで持ち上げると、笑って言った。



「さっきね、ソラを殴っちゃったんだ」




「……え?」


先輩は、左手の指でその赤い色──おそらくソラを殴ったときについた血──をごしごしとこすりながら、続けた。


「ソラの奴、さっき外に出るなり、苑が見たって言うバスの話を始めたんだよ。あれは自分が無理やり美夕ちゃんを引き止めただけなんだって。だから心配するようなことは何もない、美夕ちゃんを責めないでやってくれって。アイツ、平気な顔でそんなことを言いやがったんだ。だから思わず……」

先輩は、右手で自分の左手の掌を思いっきり殴る真似をしてみせた。


「……2人とも、怪我は?」

「俺は大丈夫。ソラのほうは唇を切ったみたいだけど、ペンションに戻る頃には血も止まってたよ」

さっき2人が外から帰ってきたとき、キッチンで聞いたソラの声からは何も変わった様子は感じられなかった。

キラも、ソラが怪我をしていたなんて一言も言っていなかったし……。



それに……。


ソラ、先輩にホントに言ったんだ。

お土産屋さんのトイレで『先輩にはちゃんと説明しとくから安心して』って言った通り、

あたしと先輩のこと、応援するつもりなんだ……。


なんだか、悔しい。
あたしは唇をぎゅっとかみ締めた。






「見え透いた嘘つきやがって。いちいちムカつくんだよ、アイツは!」

「……え?」

先輩らしくないその言い方に、あたしは驚いた。


「1人で格好つけやがって……。つい、カッとなって言っちゃったよ。お前はホントにそれでいいんだな?って。お前がその気なら、俺が美夕ちゃんを幸せにするからな!って」

笑ってはいるけれど、先輩の口調は徐々に激しくなっていった。

「あいつ、顔色ひとつ変えなかったよ。『俺は今夜美夕ちゃんを自分のものにするから、絶対に邪魔するな』って言っても、黙って笑うだけで」


──自分のものにする。

その言葉に、あたしは反射的に身体をこわばらせた。


だけど、先輩はそんなあたしを見て、声を上げて笑った。

「あーっ。その素直すぎる反応、ちょっと傷つくなぁ」


そして。

先輩は自分の手をズボンでゴシゴシこすった後、あたしの頭を優しく撫でてくれた。


「安心して。ソラにはあんなこと言ったけど、美夕ちゃんが嫌がるようなことはしないから」




「……先輩」

「恨まれてもいいっていう覚悟ができたら襲うかもしれないけどね。……悔しいことに、俺はまだ美夕ちゃんに嫌われたくないんだ。まだ美夕ちゃんのことをソラから奪い返す可能性はゼロじゃないと思ってるし」

そして先輩は、ゆっくりと、

「俺は、やっぱり美夕ちゃんのことが好きだから」

って。


今まで、こんなに一言一言大切に発せられた言葉を聞いたことがないって思うくらい、心のこもった声で。

表情で。



先輩は、あたしに、そう言ってくれた。




「先輩……あたし……」



あたし、先輩のことを好きになれたら楽になれる。

先輩は、きっとあたしのことを幸せにしてくれる。



このまま先輩に抱かれれば、

もうこんな辛い涙を流すこともないし、

あたしは絶対幸せになれる。


キラだって……

ソラだって……



きっと、それがみんなが幸せになれる、一番いい方法なんだ……。