先輩は少し照れくさそうな顔をしていた。


「まだ美夕ちゃんが小学生だった頃、よくうちに来て苑とピアノを弾いてただろ?」

「……はい」

「ある日ね、自分の部屋にいたら、リビングからいつも聴いてるのとは違うピアノの音が聴こえてきたんだ」


当時のことは、よく覚えている。

苑ちゃんと先輩の家のリビングには大きなグランドピアノがあって、

あたしとキラはよくそのピアノを弾かせてもらっていたんだ。


「苑のピアノはなんていうか、良くも悪くも正確で、生真面目な苑の性格がそのまま出ていたんだけど……その時聴いた音は、それとは全然違って、めちゃくちゃだったんだ。間違えてばっかりだし、早くなったり遅くなったりするし」


……それってどう考えてもあたしの演奏のことだ。

あまりの恥ずかしさに、あたしの顔は一気にかあっと赤くなっていった。



「だけど、すごく楽しそうに聴こえたんだ。間違えて、そのたびに元に戻って弾き直すんだけど、それでも楽しそうで」






先輩にそんな下手な演奏を聴かれて、しかも今でも覚えられているなんて、

かなり恥ずかしい……。


「だから俺、そのピアノを弾いてるのがどんな子か気になって、リビングをこっそり覗いたんだ。そしたら、笑顔でピアノ弾いてる美夕ちゃんがいて」


「だって、大きなピアノが弾けて、嬉しかったんです……」


「うん、嬉しそうだったねー。苑はいつも怖い顔して楽譜を睨みつけながら弾いてたから、美夕ちゃんの楽しそうな顔がすごく印象的だったんだ」


そこまで言うと、先輩はあたしの肩を抱いて、一度あたしを自分の体から離した。

そして顔をぐっと近づけて、至近距離からあたしの顔をじっと見つめた。



「そのとき、まだ俺はガキだったけど、美夕ちゃんのこと、可愛くていいな、って思ったんだ。今思えば、それが俺の初恋だったんだよなぁ……」


そう言うと先輩は、あたしに、


軽くて柔らかいキスをしてくれた。











キスの後、あたしは恥ずかしすぎて、先輩の顔をまともに見ることができなかった。


だって……

だって……

先輩の言葉はあまりにも嬉しくて、ドキドキして。

まるで夢を見ているみたいで。



先輩は、そんなあたしをみて、クスッと笑った。


「どう? 安心してくれた?」


なんだか胸がいっぱいで、「はい」って言ったつもりだったのに、それはうまく言葉にならなくて。

あたしは、ただ、大きくひとつ頷いた。



「じゃあ、名残惜しいけど今日は帰るね。続きは……旅行の時にでも、ゆっくり話そう?」


そう言うと、先輩は帰って行った。


そしてあたしは。

原チャリのエンジンの音がすっかり聞こえなくなるまで、

ううん。

それからもずっと、ずっと。長い間。


先輩の言葉にドキドキしすぎて、その場から動くことができなかった。





旅行を前日に控えた夜、あたしは荷造りをしながら今までに感じたことのない緊張感に襲われていた。


……だって。

明日、あたしは先輩と同じ部屋に泊まるんだよね?

2人っきりなんだよね?


カバンの奥底にキラが選んでくれた新品の下着を詰め込んでいると、そんなドキドキはいっそう激しくなる。


その時、

「美夕、準備ができたら早くお風呂に入ってー」

ママがノックもせずにあたしの部屋に入ってきた。

「やだっ! 勝手に入って来ないでよ!」


思わずカバンを背中に隠すあたし。

なんかこれじゃ、悪いことしに行くみたいだ……。



当たり前かもしれないけれど、旅行の話をしたとき、ママには大反対された。

「子供だけで旅行だなんて!」


ママってば、あたしたちのこと、いつまでたっても子供扱いするんだから。


だけど、行き先が小学校の頃からよく知っているキラの家のペンションで、
そこにはちゃんと管理人さんがいて食事などの身の回りの世話をしてくれるというのを聞くと、しぶしぶ了解してくれた。


「絶対に迷惑かけないようにね」


──ママの言う迷惑って、何?

そう思ったけど、やっぱり聞くのはやめた。





「それと、本当にお金は要らないの? キラちゃんに聞いてくれた?」

心配そうに聞いてくるママ。


「……聞いたけど、いらないんだって」

「でも、食事だって出してもらうんでしょ? 管理人さんもいるっていうし……」

「いいみたいだよ? 良く分かんないけどキラは『会社のケイヒで落ちるからいい』って言ってた」


ママは『会社のケイヒ』って言葉を聞いた途端、安心した顔になった。

「そうだったの……。じゃあ、早く準備を済ませてお風呂に入っちゃいなさいね」

ふーん。
それなら、いいんだ……。



ママが部屋を出て行くと、あたしは再び荷造りを続けた。



──私はひとつだけ、ママにウソをついていた。


ママを安心させたくて「管理人さんが住み込みで面倒を見てくれる」って説明したけど、

実は、管理人さんはペンションから少し離れたところに住んでいて、ただ朝晩の食事を運んでくれるだけなんだ……。


だけどそうでも言わないと、ママは『子供だけ』で外泊するなんて許してくれそうになかったから。


──ゴメンね、ママ。



なんだか落ち着かなくて、

何度も何度も荷物の出し入れを繰り返して、

ようやくお風呂に入った時には、もう日が変わってしまっていた。


脱衣所で濡れた体を拭きながら、洗面所の大きなミラーに自分の裸を映す。


……あたし、おかしいところないかな?


チビでガリガリで、全然色気のない貧相な身体。

これを明日、先輩に見られるんだよね……。


あたしは鏡に視線を向けたまま、自分の腰に手をやった。

今ではもう分からなくなってしまったけれど、そこにかつてあったのは、泣きながら刻んだ「ソラ」っていう痛々しい傷。

それはよく見れば、ほんの少しだけ、しかも部分的に、白い傷跡になっている。

だけどそれが元々どんな傷だったのかなんて、それを実際に見た私とソラ以外には絶対に分かるわけがなくて……。


……この傷は、まるであたしの気持ちみたいだ。

傷が消えるまでは、誰とも恋なんてできないと思っていたけど。



うん。
もう、大丈夫。

あたしはやっと、ソラから卒業できるんだ──。



鏡の自分をじっと見つめていると、お風呂あがりの身体から出る湯気で鏡はだんだん曇っていって、

そんな鏡の向こうに、私の姿はぼやけて消えてしまった。








あれこれ考えながらお風呂に入ったせいだろう。

あたしは完全にのぼせてしまって。

部屋に戻った途端、ベッドに大の字になって倒れこんだ。


天井が回っている……。
頭がクラクラする……。


だから、机の上に置いていた携帯がうるさく鳴りはじめたっていうのに、あたしはなかなかベッドから動けなくて。

のっそりと身体を動かしてそれを手に取った時には、もう、着信音が途切れた後だった。


先輩からは、お風呂に入る前に電話とメールがあって、おやすみなさいの挨拶は済ませている。


──こんな夜遅くに、誰?


あたしは携帯を開いて相手を確認した。



「──え?」



そこに表示された名前は、『ソラ』だった。


そして、あたしが携帯を手に固まったままでいると、もう一度携帯が鳴り始めた。



今度の相手も、やっぱり、ソラだった……。



激しい眩暈がしたのは、長風呂のせいなのかな。

それとも、この煩い着信音のせい……?

ソラから電話がかかってくるなんて、めったにない事だった。

ケー番もメアドも教え合ってはいたけど、あたしたちには2人だけの話題なんて何もなくて。


間には、いつもキラがいた。


だから連絡を取るといえば、いつもキラ絡み。

キラの具合が悪いから学校休むとか、

キラの元気がないんだけど昼間何かあったの? とか。


ソラが、純粋にあたしに用事があって連絡をくれたことなんて、一度もなかった。

それはもちろん、あたしにだって同じことが言えるんだけど……。


だから、ソラからの着信を知って、真っ先に思ったのはこれだった。


──キラに何かあったの?


もしかして病気になったとか?

明日の旅行にもいけなくなっちゃったとか?



あたしは、まだクラクラする頭を必死に働かせながら、通話ボタンを押した。



「もしもし、ソラ?」






……だけど、電話の向こうからは何の声も聞こえてこない。



「ソラ? 聞こえてるの?」



うっかりボタンを押し間違えただけなのかも。

そう思って耳をすますと、受話器の向こうから、気配を押し殺すような息遣いがかすかに聞こえてきた。



間違いなんかじゃない。

確かに、電話口の向こうにはソラがいるのに。



「…………」

「ねえ、ソラ?」

「…………」

「……もしかして具合が悪いとか? キラがいるんだし、大丈夫だよね?」

「…………」



沈黙は、何分も続いた。

なんだかイヤな感じがして、あたしはベッドから起き上がると、その縁に背筋を伸ばして腰掛けた。



なんでだろう?

ものすごく、イライラする。


「ねえ、明日早いんだし、用がないんだったらもう切るよ?」


……それでもソラは無言だった。


電話を切っちゃえばいいのに。

だけどあたしは、そうすることもできなくて。



こうして、ただ、沈黙の時間だけが過ぎていった。