―コツ…コツッ…―

螺旋階段を降りて店に着くと、思ったより客は少なかった。

「いらっしゃいませ。」
薄暗いカウンターの奥で、ヒゲのマスターがチラッと顔を上げる。

俺は軽く会釈をすると、5席あるカウンターの端に座って、今回もモスコミュールを頼んだ。
そのうちマスターに『いつもの』と言いたいがために、毎回最初は同じものを頼む。

店内カウンターの反対の端に恋人同士らしき男女が静かに


先にどこかのテーブル用に、ミモザとカシスオレンジを作り終えてから、俺のであろうオーダーを作りにかかる。

そんなマスターの

このマスターはいつ来てもいい男だ。
鋭い目つきに寡黙な雰囲気で、動きにも無駄がない。

ハードボイルドな男を夢見る俺の密かな憧れの存在だった。

まぁどちらかというと愛想が良くて話好きな俺にはなれそうにもないけれど。


生まれてこのかたバーになんて行く機会がなかったこともあって、
まだイマイチ慣れない平静を装いながらも嬉しさと満足感でみぞおちの辺りがぞわぞわしていた。







さわさわと和やかな客たちのおしゃべりに混ざって、時折り耳に届くゆったりとしたトランペットの音色が、緊張していた俺の気持ちを少しずつほぐしてくれる。



「…どうぞ。」

「えっ?あっ!どうも。」


店の雰囲気に浸るようにぼーっとjazzのメロディに耳を傾けていた俺は、聞きなれない女の声に思わず脊筋がピンとなった。


見ると目の前には、今までに見たことのない若い女性が静かにグラスを差し出してくれていた。

この店の店員かバイトなのであろう、しわのない白いブラウスに黒のベストを来て胸には『矢野』と書かれた小さな名札が光っている。


「あっ…ありがとう。」

コルクのコースターの上で、モスコミュールが冷えたグラスを満たしてピチピチと気泡を立てている。

フラン・ダンス/マイルス・デイビス