「で、さながら圭太郎は、『魔法使いの弟子』というわけだ」
「デュカスか。フランス曲のレパートリーを増やそうか」
「異存はないんだな」
 二人のやり取りが軽やかなラリーに感じられる。楽しそうに、と言うには言葉も表情も固いけれども。
「大歓迎だ」

 ホテルの車寄せには既にニーナさんがいた。酒井君は車を停めて、運転席から降りた。ニーナさんの方へ回る。私も窓を開けた。
「Guten Morgen, Nina. Hast du letzte Nacht gut geschlafen? Wie steht es um deine Gesundheit?(おはよう、ニーナ。昨日はよく眠れた? 体調はどう?)」
「おはよう、ナオ。あれよ、えっと、『すこぶる』元気よ」
「Warum kennen Sie dieses Wort?(何でそんな言葉知っているの)」
 酒井君がドイツ語で挨拶し、ニーナさんが日本語で返すのが面白い。
「おはようございます、ニーナさん」
「早紀、おはよう。今日は休みなのね」
「はい。空港まで一緒に行きます」
 ニーナさんは嬉しそうに頷いた。
「ザビーナさんは?」
 酒井君はニーナさんの荷物を持って、ワゴンのドアを開ける。ニーナさんは軽くため息を吐いた。
「とんでもなく朝が弱いのね。朝食には間に合わなかったのよ。その上、支度に時間がかかっているわ」
 昨日訪れたザビーナさんの部屋を思い浮かべる。たった一泊だけれど、ザビーナさんはまるで自分の部屋のようにくつろいであちこちに荷を広げて、悠々と過ごしていた。今ニーナさんの話を聞いて、納得ができる。
「五分前に電話したときは、もう出るわよって言っていたのだけど。ロビーを見てくるわ」
 ニーナさんはそう言って、ホテルの中に戻った。酒井君は開けたドアをそのまま戻して、ワゴンの後ろに回り、荷室を開けた。ニーナさんの荷物を積んだのだろう。
 圭太郎君が体を捻って、酒井君を見た。どんな表情かは、わたしからは見えなかった。