「先生は、時々もの凄く大胆な決断をする。俺に、ピアノを弾くための基本を教え込み、知識を叩き込んだ。それで、音大の附属中に入れてしまった。たった半年だ」
「それができたって自慢?」
 酒井君が聞く。悪意は無さそうだ。
「単純に驚きだ。だって、俺はそれまで好き勝手に弾いてきた。全く気にしたことがない姿勢なんか、何度注意されたか知れたもんじゃない。背筋を伸ばせ、指の形が悪い、って。でも、面白いように音が変わっていった。楽典も、小学校で習うことしか知らなかったのに、一つ分かれば曲の形がはっきりしてくる。楽譜の前の靄が晴れていくんだ。俺にもこんなことが出来るんだって、先生はやっぱり魔法使いなんだと思った」
 くす、と笑いが漏れた。
 圭太郎君からも、わたしからも、そして酒井君からも。面食らう。

「どうして笑ったのかって?」
 酒井君の質問に頷く。
「二人は?」
「わたしは、先生に出会った頃に圭太郎君が言っていたことを思い出したから。『魔女だ』って。今でも、その言い方なんだなって思ったら可笑しくて」

 先生の家での二日目の夜。先生は、三階の奥の部屋にあったスタインウェイに向かっていた。ドアは開いていて、食事の片付けをしていたわたしたちは、突然やってきた大きな波のような音に驚いて、三階に駆け上がった。
 続いて聞こえてきたのは、俯いて泣きながら紡ぐ祈り。また大きな波。また祈り。繰り返すうちに、顔は段々前を向き、そして祈りの言葉は強くはっきりとしていく。やがて、寄せては返す静かな波の上を、祈る人を載せた船が進む。厚い雲が低く続き、船は進むがどこへ進むかは分からない。しかしにわかに雲が切れ、光がそっと差して――。そんな映像が頭に浮かんだ。先生は黒い長い髪を振り払うこともせず、祈りの音楽を奏でた。
「魔女だ」
 あまりの気迫に部屋に入るのがはばかられ、わたしたちはドアの影から先生を見ていた。圭太郎君は先生をじっと見ながらそう言った。
「俺が弾いてもあんな音はしなかった」
 いいなあ、と圭太郎君は呟いた。走ったあとにごくごくと水を飲み干し、その後に思わずため息を吐いてしまうように、あまりに自然にこぼれた「いいなあ」だった。
「教えてもらえば良いんだよ。ここに居ていいって言ってくれた白峰さんは、魔女じゃない」
 その日の朝からずっとこんな顔をしている。圭太郎君は長年探し求めていた宝物を目の前にしたように、存分に弾いていいピアノと、それを操る人を見つめていた。手に取ってしまえば良いのにな、と思った。わたしたちはきっといま、欲しいものを欲しいと言っても誰にも怒られない。
「圭太郎君の、ピアノの先生だよ」
 ――雲間から光が差し、その切れ目から小さな天使が舞い降りてくる。祈る人々が呼びかけて、天使はそれに応える。天使が船の進む先を指し示す。そちらは明るく晴れている。まるで色鮮やかな絵本を読んでいるように、美しい音楽が続いていた。
 圭太郎君のピアノの音もカラフルだ。だけど先生の奏でる音楽は、ずっと見つめていたいほどにたくさんの言葉が含まれている。きっと圭太郎君を自由にしてくれる。圭太郎君を助けてくれる。