一瞬、息が止まるかと思った。
 圭太郎君が自分の生い立ちのことを、こんなにも乱暴に、率直に、人に話したのを聞いたことは無い。

「『ゆうきの園』に入ったとき、俺は四歳だった。行くときは母親と一緒だった。気が付いたら母親の姿はなかった。いくら待っても母親は迎えに来なかった」
「圭太郎君……」
 思わず座席を振り返った。圭太郎君の表情を、気持ちを隠していたような紙はどこにもなかった。

「父親の顔は知らない。母親の顔は忘れた。園に入る前のことも、小さかったから覚えてない」
 わたしとは視線が合わない。圭太郎君は酒井君を見ている。
「園の手伝いに来ていた人が、ピアノを教えてくれた。五歳になる春から四年間だ。その後は、先生に会うまでは一人で弾いてきた」
 週に三回、そのお兄さんが来るのを圭太郎君は心待ちにしていた。ボランティアサークルの大学生達が来ると、圭太郎君は走ってそのお兄さんに飛びつき、服の裾をしっかりと握ってピアノの傍へ連れていった。お手本を弾いてもらい、楽譜の読み方を教わりながら、赤ちゃんが聴いた言葉を繰り返して言葉を覚えるように、ピアノというものを吸収していった。

 いつもぶっきらぼうで、喧嘩っ早い圭太郎君が、ピアノとそのお兄さんの前では大人しいのが不思議だった。園の他の子達はそれを可笑しがり、からかうから、圭太郎君は喧嘩をしては園長先生に叱られていた。
 お兄さんは大学を卒業して、地元に帰ることになった。最後の訪問日、荷物を整理したから、と数人の大学生から一人ずつプレゼントをもらった。が、わたしの手元に来たのはどう見ても新品の国語辞典だった。圭太郎君だけはお兄さんのお下がりの、紙袋いっぱいの楽譜だった。みんなが大泣きする中で、圭太郎君は一冊の楽譜をずっと腕に抱いていた。