圭太郎君はホールに椅子を二つ置いてわたしと酒井君を座らせたあと、グロトリアンに近づいて行った。まず、カバーを取った。そして前屋根を折り、右手で大屋根を上げ、左手で棒を上げて大屋根をそっと固定する。譜面台は抜かずに立ち上げた。楽譜を広げて置く。鍵盤の蓋を開け、椅子に座って指を載せ、一旦立ち上がって椅子の高さを調節する。腰掛ける。

「まだ、人前に出すものじゃないけど」
 そう、一度こちらを向いて言った。
「未完成なんだけど、それでも今、聴いてほしい」

 圭太郎君は背筋を伸ばした。鍵盤の上で手を握り、開く。小さく息を吐いた。
 腕を広げて、左手を鍵盤に置き、右手は右足の腿に載せた。右足はダンパーペダルに掛けている。

 楽譜をじっと見つめながら、圭太郎君は左手を動かし始めた。鍵盤の上を滑るように動く左手。やがて右手を持ち上げ、軽やかな歌を歌い始める。低く垂れこめた雲間から、光と、色彩を帯びた雨滴がともに降り注ぐかのように。