会社に戻り、吉岡圭太郎と契約の口約束ができたことを上司に報告した。詳細を決める日を告げ、こちらから提示する内容を確認する。僕の話が一区切りすると、ニーナは待っていたとばかりに圭太郎の演奏の話をした。上司はにこやかにそれを聞き、
「サムライに惚れたのかな」
 と冗談めかして相槌を打つ。
「ええ、惚れたわ。何度か彼の演奏は聞いているけど今日も素晴らしかった。私だけじゃない。今ごろ、あの演奏を聴いた女性はこぞって彼の演奏CDを探しているわ。ネットを見て、店を周り、店員に問い質しているの。そして落胆し、私たちの仕事を待っている」
 ねえ、ナオ。興奮気味に話す彼女に苦笑しながらも頷く。

 部屋に帰ると、肩に重みを感じた。どっとした疲労感に自分で驚く。当然だ、今日は緊張の連続だった。
 日本は夜明け前だ。早紀の声を聴きたいけれど、やめておく。また、自分で背負いこみ過ぎて悩んでいないといいけれど。

 電話が鳴る。出ると、ニーナからだった。 
「ナオ、あなたまさか、一人で夕食にしようなんて思ってはいないわよね」
 シャワーを浴びたら外に出ようとは思っていたが、一人で行くつもりだった。
「来て。ドイツでビールを飲まないわけにはいかないわよ」