演奏を終えた圭太郎は、ホールいっぱいの拍手と歓声を受けていた。立ち上がり「bravo」と声を挙げる人も少なくない。オーケストラも圭太郎へ惜しみない拍手(もしくは足を踏み鳴らして)を送る。はつらつとして輝かしい音楽が演奏者によってさらに高められた。拍手が止まない。圭太郎は指揮者とオーケストラを称えるが、この演奏の主役は誰の目にも圭太郎だった。
 カーテンコールが繰り返され、三度目で圭太郎はピアノの前に座った。ホールが静まり返る。

「何を弾くのかしら」
 ニーナが耳打ちする。
「楽屋で弾いていたショパン?」
「どうだろう」
 圭太郎は鍵盤の上に両手を置き、手首をすっと上げた。このピアニストは、雨を司る。

 そのくらい、圭太郎の指が生み出す音は雨粒を思い起こさせる。それは桜色をした雨だった。
 さくらさくら
 弥生の空は
 見渡す限り
 霞か雲か
 匂ひぞ出づる
 いざやいざや
 見に行かむ
「やっぱり、彼はサムライね」
 ニーナの声は抑えているが弾んでいる。圭太郎がアンコールに選んだのは『さくらさくら』をアレンジしたピアノ曲、日本人であるという気概を見せつけるように精悍な顔つきで、真剣に、会場に桜の花を降らせる。

 俺はここにいるぞ。

 不意に、あの五月に聴いた『愛の夢』を思い出す。そうだ、違う、異国の地で日本人と主張するためのこの曲ではない。僕の背筋を何かが走ったように感じた。