約束の時間になり、控え室を訪ねた。二重扉を開けると、まずライスターが迎えてくれ、ピアノでは圭太郎がショパンを弾いていた。

「お久しぶりです。以前、白峰さんのお宅でお会いしました、酒井です」
 巨匠はいよいよその貫禄を見せ、ゆったりとしたハグをくれた。
「よく来てくれたね。覚えているよ、初めて圭太郎の演奏を聴いたとき、君に会った。それから、ヨシュの家でも。上手にドイツ語を話すなあ。元気そうだ」
「あなたも、お元気そうで良かった」
 ライスターは目尻を下げた。そこには深い皺が刻まれて、否応なしに老いを感じさせる。 
「まさか、君の会社が日本人を送り込んでくるとはな。圭太郎をよろしく頼むよ」
 
 短いワルツは終焉を迎え、音楽は静かに終わった。
「勝手によろしくしないで欲しい、師匠」
 圭太郎は立ち上がり、振り返ってミネラルウォーターを口にした。ボトルのキャップを閉め、こちらを向く。
「久しぶりだな。日本を発つときに会って以来だ」
 すっと右手を差し出された。日本語で話しかけられたので、日本語で応える。
「お久しぶりです。吉岡、さん」
「気持ち悪いな、圭太郎でいいよ。あれ、お前は俺のこと、圭太郎って呼んでたよな」
 ふっと圭太郎の口の端から笑みがこぼれる。右手に力を入れた。長く、骨ばった指だ。ピアニストの指だ。
「じゃあ、圭太郎。君の担当になった。彼女は、こっちの本社に務めているニーナ。僕と一緒に、君を口説き落とせと言われている」