ニーナが車をつけたのは、大きな音楽ホールの駐車場だった。入館証を受け取って中に入ると、ホワイエでは雑然と準備が進んでいた。ラフな格好のスタッフやプレスの関係者が歩き回っていた。
「今日の午後からが本番なのよ。今は最終リハーサルの真っ最中」
 早足で歩き、ホールのドアの前で静止する。重いドアを開けて、まずニーナを入れ、僕もホールへ足を踏み入れる。

 粒の揃った雨滴が心地よく身体に降ってくる。ベートーベンのピアノ協奏曲第一番。自信と誇りに満ちた、弾けるように明るい音楽がホールに広がる。
「何て気持ちの良いベートーベン」
 ニーナが呟いた。僕も同感だ。
「今日の録音をそのままCDにしたいね」
 無論、戯れ言だ。知名度の低いピアニストのライブなんて売れやしない。

 圭太郎は背筋をすっと伸ばして演奏を続ける。黒い短髪、形の良い鼻梁。鋭い眼差しをする奴だと思っていたが、演奏者である圭太郎の瞳には鋭さよりも熱っぽさが映っている。あまり鍵盤を見ない。指揮者やコンマス(コンサートマスター。第一ヴァイオリンの主席奏者で、オーケストラのリーダーである)と時おり言葉を交わす。
 白いワイシャツの腕が軽やかに、楽しそうに鍵盤の上を動く。長い指は、複雑さを微塵も感じさせない滑らかさで、この嫌みのない音を生み出している。
「あれが日本のサムライね」
「映画の見過ぎだよ」
 僕たちは席に着くのも忘れて、立ったまま圭太郎の演奏に見入った。