私はぎゅっとつり革に
つかまりました。


そして無意識に
そっと彼のほうを
見ました。


彼は彼の近くにいた
おばあさんが
ふらついてこけそうに
なったところに手を
差し出していました。




そして聞こえたのは
彼の声でした。

「大丈夫ですか?」


「あぁ・・・ごめんなさいね、
ありがとう」


「いえ、どういたしまして」
彼は静かに答えました。



その彼の声は私の中に
すうっと入ってきました。


透き通るような低い声、



それでいてやさしい。


私はつり革をぎゅっと
握りしめたまま

彼の声を忘れないように

何度もこころの中で
反芻していました。






そのうち私は自分に声を
かけられたわけでも
ないのにドキドキが
どんどん大きくなって
ゆくのでした。


電車が三条に
ついてもドキドキは
おさまらなくて

学校に着いて嬉しくて
友人の麻友に話しました。



「すごく声がきれいで
私の思ってる通りの
声やってんよ」


「ふ〜ん・・・、
でもそんな嬉しそうに
言うたかて・・・
愛乃が話しかけられた
わけちゃうんやろ?」



「そりゃそうやけど・・・」


んー…。


麻友に話すんじゃなかったと
思いました。


まぁ、
その場にいたわけでもないし

私が彼のことを一方的に
いつも報告しているだけなので


多分、聞いていても彼女は
つまらないのだと思います。



それでも私はやっぱり
その日は

1日中幸せでした。



そしてその日以来、
勇気を出して同じ車両に
乗ることにしました。


もしかしたらまたなにか
あるかもしれない。


彼のなにかを知ることが
できるかもしれない、

そう思ったのです。


でも特にそれ以来、
彼についてなにか
わかったことは
これといって
ありませんでした。



でも同じ車両に乗る、

たったそれだけの
ことなのになんとなく
彼と近くなれたような
感じでとても嬉しく
思いました。






そしてまたひとつ望みが
叶うと欲深い人間は
また次と望んで
しまうものです。



声を聞いて、

同じ車両に乗って

・・・それで
満足だったはずなのに。


でもだからといって彼に
なにかをはたらきかける
勇気もありません。

そんな思いを
知るわけもない
彼がいつものように
乗ってきます。


彼は私の存在に
気づいて
いるのでしょうか?


ただのたくさんいる乗客の
中の1人だと
思っているのでしょうか?


でもきっとそうでしょう。

冷静に周りを見れば
会社員のおじさんや
OLのお姉さん、

そして私と
同じように制服を着た
女子生徒や男子生徒で
満員です。


これじゃ乗客の中の
1人とも思われてないかも
しれません。


私の存在すら
気づいてないかも
しれません。


彼はいつも外の風景を
見ているかなにかの本を
読んでいるかの
どちらかです。



やっぱり彼になにかを
はたらきかける勇気も
ない私。

それでも少しでも
彼の近いところにいたい、

そう思っていたとき
あることに気づきました。


彼はいつも電車に乗ると
しばらくしてから本を
読みはじめます。


私はその本がなにで
あるかをどうにかして
知ろうと思いました。


彼と同じ本を読みたい、
彼の好きなこと、

思っていることがその本を
自分が読むことで少しでも
理解できるのではないかと
思ったのです。


幸いブックカバーを
つけていなかったようなので
容易に調べることができると
思いました。


変な言い方でしたが
要は近眼であるアタシには
そのタイトルを理解するのには
難しかったということでした。


ぼやけて肝心のタイトルが
見えなかったのです。


ただ作者はわかりました。

司馬遼太郎でした。


本は分厚くて背表紙が
黄色で2文字くらい・・・。

それから必死で学校の
帰りに新京極の
紀伊国屋書店に寄って
探しました。


私も本を読むのは
好きですが司馬遼太郎は
読んだことが
ありませんでした。


司馬遼太郎の本は
あまりも多すぎて彼が
読んでいた本が
皆目検討も
つきませんでした。