御台屋敷を発つ時、与志摩は波瀬川に降り立ち、具教正室松のお方がわが子や一族の子女の無事を祈り続けた斎津岩群(ゆついはむら)に『常にもがもな永遠(とこ)処女にて』と波野姫の無事を祈った。
 
 五箇篠山に籠城する具親勢が決起したのは大晦日の午後である。先ず大河内城下に出撃して付近の民家を悉く焼き払った。
 これを知った信雄は鎮圧のため、元旦の早朝、津川玄蕃允、田丸中務少輔、日置大膳亮、本田左京佐らに一万の兵を与えて五箇篠山城攻撃に向かわせた。
 具親は大河内の龍ヶ鼻(旧大河内村桂瀬と松尾丹生寺との境)で防戦したが防ぎきれず一千の兵を率いて五箇篠山に籠城する。 
 佐々木与志摩は五箇篠山に着くと、安保直親と二千を率いて、防衛の前線を鳥はみ坂(飯南郡石村六呂木と小片野との間の坂路)に張って食い止めようとした。しかし、激戦の末、徐々に押されて退却を余儀なくされる。信雄軍はじりじりと五箇篠山城に肉迫した。
 二人は城の北麓を流れている櫛田川を最後の防御戦として士卒を励まし懸命に防いだが、とうとうそこも突破され、残兵とともにやむなく城に退いた。
 城は五箇谷村の古江と朝柄の中間にある標高五町程の山上にある。城下に達した信雄勢は、山下の森林に火を放った。
 麓で戦っていた具親勢は這い上がってくる火の手に押されて全員が山上の城郭に逃げ登って行く。
 これを見た信雄の配下小川新苦労九郎と松ヶ島の城主津川玄蕃允の手勢が追撃を開始した。