二郎高定とは波野姫、久野姫の兄のことだ。武田義信の娘を娶り、恵林寺に逗留している。
 長篠の戦いに大敗して以来、甲斐武田の存在は信長を脅かすほどの勢力になく、武田侵攻は時間の問題となっていた。 
師走を迎えてから信長は侵攻のための兵糧を徳川家康に送り、戦備を整えている。すでに本願寺は信長と和睦して矛を収め、荒木村重の有岡城、別所長治の三木城も落ちて、信長の平定も残すは毛利のみとなりつつあった。
 部屋には沈黙がながれた。
ややあって、それを払うように具親が言う。
「それでは今夜は武田殿をお送りする送別の宴を盛大に開くことに致しましょう」
「そうしたいのはやまやまなれど…実はな…今宵、評定が開かれることになった。公方様は具親殿にも参加せよと仰せなのじゃ」
義治が将軍後見職の役目柄、具親に伝えた。
「わずかな時間であっても、一目なりとも、お一人お一人のお顔を確と心に刻みつけたくて、こうしてやって参りました。お別れの挨拶が叶った今、思い残すことはごさりませぬ。どうか、皆様も達者でお暮らし下さりませ…」
 五郎が別れの挨拶を述べる。
「そういう事であれば、皆で鞆の城まで信景殿をお送りさせていただこう。鞆麿や亀千代、それに明応丸も呼んで来るがよい」
 具親が監物丞に言付ける。二人は出された白湯(さゆ)を啜ると庭に出た。