三蔵や弟の四郎右衛門は自分たち一族が本貫地近江を離れ、海浜の辺鄙な村へ遣られたことを左遷と感じ、屈辱と思っていた。その思いは数年のうちに旧主承禎や、その原因を作った具教に対する憎悪へと変質していった。
 四郎左衛門は具教の近習であった。ある日、彼は大湊で甲鉄船造りに精を出す兄の三蔵から呼び出された。
大湊の造船場に行くと、安土から滝川一益が、将来、自分が指揮するであろう一艘の大宅安宅船の進捗状況を、配下の犬飼助三、渡辺左内、伊藤孫太夫らと視察にきていた。
 一益は、その日(天正四年十一月二十三日)、大湊七ケ村の老分衆中に宛て、信長の御命令については、大湊としても異議なく調えよと通達し、大型甲鉄船の建造に遅滞や粗略があってはならぬと命じている。
 一益一行が長島に帰っていくと、四郎左衛門はそれまで造船奉行一益の対応に忙しかった兄から密命を与えられた。
 
 翌暁、舟奉行の屋敷を出た四郎左衛門は密命を実行すべく冬枯れの熊野街道を三瀬谷の城に戻った。
 三瀬谷の城は、上三瀬(大台町上三瀬)の北方、背後に急峻な山地が迫る山腹の平坦地にあった。古来熊野街道の要衝に当たり、右折すると川俣谷、高見峠を経て、奥吉野へ通じ、西には嵩嶺幽谷の大杉谷が控え、千古の樹海は吉野・熊野に果てし無く広がって大台が原へと続いている。