鳥羽に帰った九鬼嘉隆は熊野海賊衆の東熊野西牟婁群安宅の安宅氏、奥熊野北牟婁郡尾鷲裏の向井氏、さらに鵜殿の新宮党などの本流傍流を招集して、巨大戦艦の造船に乗り出した。
八月の終わり頃から、九鬼嘉隆は支配下にある海賊衆を大湊に集結、大湊七ケ村から四、五百人の人夫を出させて、海岸に大きな穴を掘らせ始めた。
一ヵ月ほども掘り続けると巨大な窪地は空堀のように大きくなった。
十月になると、これまた同数の船大工たちが空堀に入り込んで船底を組み立てる作業に取りかかり、十一月に入る頃には、六艘分の巨大な木組みの龍骨が、空堀の様な窪地に所(ところ)狭(せま)しと据えられていく。龍骨が完成すると、信長は滝川一益を安土に呼びつけ大湊の甲鉄船の進捗状況を糺した。
「はー、遅滞なく進みおります」
「甲鉄板は何時張るのじゃ」
「目下のところ関の鉄匠らの手により大湊に運ばせおりますれば、年内には着工できるかと…」
「ならば北畠一族の殲滅を急がねばなるまい。甲鉄船の存在が、毛利や武田に漏れては水泡に帰する。田丸(度会郡玉城町)の信雄、大湊の一安に具教を葬るよう通達せよ」
「承知仕りました」
信長より北畠一族の暗殺指令をうけた一益は、直ちに、築城中の伊勢長島城に戻り、与えられた任務を達成するため信雄の重臣滝川雄利、柘植三郎左衛門らと謀議を重ねた。
信長の命を受けた九鬼嘉隆が大湊で巨大戦艦数艘の造船に邁進していた時の北畠の船奉行は佐々木宇右衛門の子の三蔵である。熊野海賊衆に巻き込まれぬよう具教が与志摩を仲介者として承禎に人選を依頼した宇右衛門と一族郎党であったが、何時の間にかミイラ取りがミイラになってしまい、今では、三瀬谷の具教に見切りをつけ、信雄支配下の九鬼氏傘下におさまって、積極的に大安宅船の建造に協力していた。
八月の終わり頃から、九鬼嘉隆は支配下にある海賊衆を大湊に集結、大湊七ケ村から四、五百人の人夫を出させて、海岸に大きな穴を掘らせ始めた。
一ヵ月ほども掘り続けると巨大な窪地は空堀のように大きくなった。
十月になると、これまた同数の船大工たちが空堀に入り込んで船底を組み立てる作業に取りかかり、十一月に入る頃には、六艘分の巨大な木組みの龍骨が、空堀の様な窪地に所(ところ)狭(せま)しと据えられていく。龍骨が完成すると、信長は滝川一益を安土に呼びつけ大湊の甲鉄船の進捗状況を糺した。
「はー、遅滞なく進みおります」
「甲鉄板は何時張るのじゃ」
「目下のところ関の鉄匠らの手により大湊に運ばせおりますれば、年内には着工できるかと…」
「ならば北畠一族の殲滅を急がねばなるまい。甲鉄船の存在が、毛利や武田に漏れては水泡に帰する。田丸(度会郡玉城町)の信雄、大湊の一安に具教を葬るよう通達せよ」
「承知仕りました」
信長より北畠一族の暗殺指令をうけた一益は、直ちに、築城中の伊勢長島城に戻り、与えられた任務を達成するため信雄の重臣滝川雄利、柘植三郎左衛門らと謀議を重ねた。
信長の命を受けた九鬼嘉隆が大湊で巨大戦艦数艘の造船に邁進していた時の北畠の船奉行は佐々木宇右衛門の子の三蔵である。熊野海賊衆に巻き込まれぬよう具教が与志摩を仲介者として承禎に人選を依頼した宇右衛門と一族郎党であったが、何時の間にかミイラ取りがミイラになってしまい、今では、三瀬谷の具教に見切りをつけ、信雄支配下の九鬼氏傘下におさまって、積極的に大安宅船の建造に協力していた。