水谷俊之は木造の家老の身ながら具政が織田に寝返った時、一族十人と木造城を脱出、波多の横山の御台屋敷に至り、佐々木与志摩と大河内城の具教に木造謀叛を進駐した硬骨感である。若いころは具教の小姓であった。数日にわたる議論の末、水谷の論が支持され、大勢を占めるに至ったため和議を求めることにした。
 十月四日、船江(飯南郡松江村、現松阪市内)の薬師寺において国司父子と信長の次男で十一歳の茶筅丸(のち信雄)とが親子の杯を交わし具房の養子となった。
 その日、具教、具房父子は大河内城を滝川一益と津田一安の両奉行に引き渡し、多気笠木の坂内御所へ退去する。開城と同時に木下軍に人質となっていた北畠正室松の方と女佐の臣佐々木与志摩は無事解放された。
 叔母でさえ刑死に至らしめる信長の陣営にあって、松の方が事なきを得たのは異例のことで、女佐の臣与志摩が側にお付きしていたことと、二人を人質として預かった滝孫平次、孫八郎、右近らの兄弟がかつて譜代旧恩をうけた家の姫君として手厚く配慮してくれたことによる。
 具教の退去した多気笠木の坂内御所は娘小坂御前の婿坂内兵庫頭具義の城であった。
 信長の命を受けた滝孫八郎(中村一榮)はお松の方と与志摩の二人の人質を丁重に坂内御所に送り届けた。