信長は九月八日、再度、稲葉伊予守、池田恒興、丹羽長秀らに攻撃を命じ、三手に別れて軍兵を繰り出したが急に雨が降りだす。そのため火縄銃が使えず、織田軍に多数の死傷者が出た。池田衆の攻め口では、馬廻りの朝日孫八郎、波多野弥三郎らが、また、丹羽衆の攻め口では、近松豊前守、神戸市介、寺沢弥九郎、溝口富助、金松久左衛門らが戦死した。北畠勢も家城の家臣、今尾蔵人、加藤五郎左衛門など勇猛な武将を失う。しかし、それでも怯(ひる)まず、船江城の本田美作守の率いる決死隊二十人が氏家卜伝の丹生寺の陣へ夜討ちをかけ氏家配下の三十六人が死んだ。 
 九月九日、信長は兵糧攻めに出た。滝川一益に命じて多気谷の国司御殿を焼き払わせ、周辺の稲はすべて刈り取らせた。
 大河内城では、北畠家老鳥屋尾岩見守が籠城に必要な糧食を確保していたためにすぐに落城することはなかった。しかし、戦局が長引き二ヵ月も経つと、食料も底を尽き、城内に餓死者が出るようになった。信長は和睦に持ち込むにはいい潮時と見て、柘植三郎左衛門に矢文を射させる。
『具教が多気城を去って隠退するならば、信長の子、茶筅丸を養子に遣る。これに同意するならば、今後、具教に対して粗略な扱いをしない。御正室の身柄は藤吉郎が預かっているが和談に同意すれば無事に送り返す』
 大河内城内では、食料、弾薬ともに欠乏、残るはただ精神力に縋るのみとなっていた。
「神国、伊勢を攻めるものはみずから滅ぶ。いずれ織田は撃退出来るであろう」
 三男の式部大輔や藏田喜右衛門らもこれに同調して主張する。
「敵が攻めあぐんでいる時こそ踏ん張らねばならぬ。時間稼ぎの和議申し入れなどに乗るでないぞ。今こそ攻撃じゃ…」
 これらの精神主義に対して合理派の水谷俊之が反論を申し立てる。
「兵は疲労困憊し、城内には厭戦の気分が流れております。時を稼ぐは我が方、また、養子として入れれば茶筅丸は人質も同然。それに、奥方様のことを考えれば和議が適当かと…」