馬上の人質、松姫と与志摩を中に挟んだ木下軍三千は、深夜の波瀬街道を室の口から矢頭谷に入り、仁王峠から下之川を経由して、八月二十九日早暁、大河内城の西方に陣取る氏家卜伝、佐久間信盛らの軍団と合流した。
その間、人質とは思えない凛とした姿勢で気高く馬を駆る松のお方様に孫八郎は強く感銘している。
大河内城は阿坂城の西北、五里余りの伊勢街道沿いにある。高さ三町程の小山の上にあり、麓は田畑の平地で、道も開け、攻撃側に立つ織田方からすれば兵の展開には恵まれていた。
北畠具教は一志郡細首(一志郡松ケ崎村松ケ島)に館を築き、多気から移っていたが、織田の侵攻に遭い、細首には日置大膳亮を留め置き、自身は大河内城に入った。
すでに国司家の精鋭は全て大河内城に集結している。大河内城は要害としてはそれほど天倹と言うほどのことはない。しかし、前面には伊勢平野が開け、後方には大和から伊賀に連なる山地を負っている。従ってこの地に拠れば敵軍を追い前進して旗を伊勢平野に立てることも出来るし、退いて多気の山城に最後の籠城戦を試みることも可能である。だが、織田の兵力五万に対して、大河内城に籠もる北畠軍は一万弱の劣勢にあった。
秀吉が大河内城下に着陣した二十九日の払暁、桂瀬山に本陣を置く信長は総攻撃を命じた。緒戦は大手の広坂口と市場付近で、織田軍の先鋒、池田恒興の兵五百と、北畠の主力、日置大膳亮、家城主水祐の兵五百が激突する。
池田勢は土倉四郎兵衛、八木粂右衛門らが先陣を駆け、北畠では槍の家城主水祐をはじめ、永井帯刀、小林図書頭、船木左馬助、阿村新左衛門らが獅子奮迅の働きであった。小半時の白兵戦が展開されたが、次第に織田勢が押しまくられて後退した。
その間、人質とは思えない凛とした姿勢で気高く馬を駆る松のお方様に孫八郎は強く感銘している。
大河内城は阿坂城の西北、五里余りの伊勢街道沿いにある。高さ三町程の小山の上にあり、麓は田畑の平地で、道も開け、攻撃側に立つ織田方からすれば兵の展開には恵まれていた。
北畠具教は一志郡細首(一志郡松ケ崎村松ケ島)に館を築き、多気から移っていたが、織田の侵攻に遭い、細首には日置大膳亮を留め置き、自身は大河内城に入った。
すでに国司家の精鋭は全て大河内城に集結している。大河内城は要害としてはそれほど天倹と言うほどのことはない。しかし、前面には伊勢平野が開け、後方には大和から伊賀に連なる山地を負っている。従ってこの地に拠れば敵軍を追い前進して旗を伊勢平野に立てることも出来るし、退いて多気の山城に最後の籠城戦を試みることも可能である。だが、織田の兵力五万に対して、大河内城に籠もる北畠軍は一万弱の劣勢にあった。
秀吉が大河内城下に着陣した二十九日の払暁、桂瀬山に本陣を置く信長は総攻撃を命じた。緒戦は大手の広坂口と市場付近で、織田軍の先鋒、池田恒興の兵五百と、北畠の主力、日置大膳亮、家城主水祐の兵五百が激突する。
池田勢は土倉四郎兵衛、八木粂右衛門らが先陣を駆け、北畠では槍の家城主水祐をはじめ、永井帯刀、小林図書頭、船木左馬助、阿村新左衛門らが獅子奮迅の働きであった。小半時の白兵戦が展開されたが、次第に織田勢が押しまくられて後退した。