「滝一政の子…孫平次です。…見覚えござりませぬか…」
与志摩は邪魔者が入って、余計なことをしてくれるわいと思った。確かに滝孫平次である。甲賀多喜の出身で、滝川一益の父一勝が櫟野城から多喜城に移り多喜村を滝村に改める以前は多喜姓を名乗っていた。孫平次の父一政はかつて与志摩とともに佐々木六角の麾下にあった。松姫が北畠に嫁ぎ、与志摩が女佐の臣として北畠に来たのは天文十二年で、その頃、孫平次はまだ十一、二歳、孫八郎は十歳に満たなかった。多喜家は伴四党(大原、上野、伴、多喜)の一つで、甲賀多喜に四つの山城(多喜北城、多喜南城、梅垣城、青木城)を有していた。与志摩と一政はともに佐々木の庶流にあたり、その頃は、互いの屋敷を訪れ会って親密に交際していた。しかし、永禄二年(一五五九)一政四十五歳、孫平次二十七歳、孫八郎二十一歳の時、同族、多喜久助(滝川一益)の勧めもあって一家三百貫(三千石)の高祿をもって信長に仕官した。滝川一益の叔父恒利(一勝の弟)は尾張池田秀政の養子で、妻養徳院が信長の乳母、長男恒興は信長の乳兄弟である。
この頃より信長は近江侵攻の布石として甲賀武士の調略に乗り出していた。孫平次は信長の小姓組に入ったが、墨俣に出兵する永禄八年に、孫八郎、右近らの弟とともに秀吉の与力に配属された。
与志摩も風説でそのようなことは耳にしていたが、まさかこの御台屋敷で孫平次に会おうなどとは思ってもいなかった。
孫平次、孫八郎、右近らの兄弟は伊勢侵攻に臨み、父親から与志摩が松姫について伊勢北畠に来ていることを知らされていた。与志摩は何も答えなかった。孫平次の目が一瞬険しく光る。
与志摩は邪魔者が入って、余計なことをしてくれるわいと思った。確かに滝孫平次である。甲賀多喜の出身で、滝川一益の父一勝が櫟野城から多喜城に移り多喜村を滝村に改める以前は多喜姓を名乗っていた。孫平次の父一政はかつて与志摩とともに佐々木六角の麾下にあった。松姫が北畠に嫁ぎ、与志摩が女佐の臣として北畠に来たのは天文十二年で、その頃、孫平次はまだ十一、二歳、孫八郎は十歳に満たなかった。多喜家は伴四党(大原、上野、伴、多喜)の一つで、甲賀多喜に四つの山城(多喜北城、多喜南城、梅垣城、青木城)を有していた。与志摩と一政はともに佐々木の庶流にあたり、その頃は、互いの屋敷を訪れ会って親密に交際していた。しかし、永禄二年(一五五九)一政四十五歳、孫平次二十七歳、孫八郎二十一歳の時、同族、多喜久助(滝川一益)の勧めもあって一家三百貫(三千石)の高祿をもって信長に仕官した。滝川一益の叔父恒利(一勝の弟)は尾張池田秀政の養子で、妻養徳院が信長の乳母、長男恒興は信長の乳兄弟である。
この頃より信長は近江侵攻の布石として甲賀武士の調略に乗り出していた。孫平次は信長の小姓組に入ったが、墨俣に出兵する永禄八年に、孫八郎、右近らの弟とともに秀吉の与力に配属された。
与志摩も風説でそのようなことは耳にしていたが、まさかこの御台屋敷で孫平次に会おうなどとは思ってもいなかった。
孫平次、孫八郎、右近らの兄弟は伊勢侵攻に臨み、父親から与志摩が松姫について伊勢北畠に来ていることを知らされていた。与志摩は何も答えなかった。孫平次の目が一瞬険しく光る。