「何と酷いことを……。このような峻烈な仕打ちは敵の怨念をかきたてるだけで、己を窮地に追い込むことしかせぬ。具教殿も過(あやま)たれたものよ」
「可哀相なのは奈津の父柘植三郎左衛門で、娘の死を悼み、金子十助なる木造方の侍の力を借りて、夜暗くなってから雲出川を泳ぎ渡り、奈津の死体を奪い取ると、泣く泣く宝福寺に持ち帰り、養誉という上人に丁重に弔ってもらったそうにござります」
「人質とは言うものの幼き子を手に掛けるは非情よのう。ワシも今井の稚き嫡子が人質ゆえに斬殺される場に立ち会ったことがある。乱世に生きねばならぬ武士のこれ以上の辛い定めはない」
「御意。すでに木造城には安濃津の城から津田一安に率いられた織田の先兵が入城しているとのこと、国司家は秋山右近、沢源六郎、芳野宮内少輔らに精兵一千をつけ、具政の木造、戸木の両城を攻撃させました。しかし、娘を殺された家老柘植三郎左衛門が子の彦次郎や郎党の金子十助、六ノ助兄弟らと篭城の囲みを破り、木造城から出て奈津の仇を一人でも多く討とうと獅子奮迅の戦いぶり。これを見た木造勢は柘植一族にいたく同情し、勇猛果敢に迎え撃ったため国司家の軍勢は気合負けして後退する始末にござりました」
「柘植の娘を処刑したことが反逆の血を滾らせたのじゃ」
「御意、これで国司軍は、かつて与力であった長野、神戸、そして一族の木造の軍勢を失うことになりました」
長野家に養子に入った具藤は、永禄五年(一五六二)に定藤が死ぬと七歳で当主になった。ところが昨年二月、信長が北伊勢に侵攻した時、分部光嘉らが信長の弟信包を長野の当主に迎えたため、父を頼り南伊勢に逃げ帰った。この時、神戸家は信長の攻撃を受け、圧倒的多数の敵軍に包囲され、やむなく和睦して、信長の三男三七郎信孝を養子として迎え、織田の軍門に下った。
「可哀相なのは奈津の父柘植三郎左衛門で、娘の死を悼み、金子十助なる木造方の侍の力を借りて、夜暗くなってから雲出川を泳ぎ渡り、奈津の死体を奪い取ると、泣く泣く宝福寺に持ち帰り、養誉という上人に丁重に弔ってもらったそうにござります」
「人質とは言うものの幼き子を手に掛けるは非情よのう。ワシも今井の稚き嫡子が人質ゆえに斬殺される場に立ち会ったことがある。乱世に生きねばならぬ武士のこれ以上の辛い定めはない」
「御意。すでに木造城には安濃津の城から津田一安に率いられた織田の先兵が入城しているとのこと、国司家は秋山右近、沢源六郎、芳野宮内少輔らに精兵一千をつけ、具政の木造、戸木の両城を攻撃させました。しかし、娘を殺された家老柘植三郎左衛門が子の彦次郎や郎党の金子十助、六ノ助兄弟らと篭城の囲みを破り、木造城から出て奈津の仇を一人でも多く討とうと獅子奮迅の戦いぶり。これを見た木造勢は柘植一族にいたく同情し、勇猛果敢に迎え撃ったため国司家の軍勢は気合負けして後退する始末にござりました」
「柘植の娘を処刑したことが反逆の血を滾らせたのじゃ」
「御意、これで国司軍は、かつて与力であった長野、神戸、そして一族の木造の軍勢を失うことになりました」
長野家に養子に入った具藤は、永禄五年(一五六二)に定藤が死ぬと七歳で当主になった。ところが昨年二月、信長が北伊勢に侵攻した時、分部光嘉らが信長の弟信包を長野の当主に迎えたため、父を頼り南伊勢に逃げ帰った。この時、神戸家は信長の攻撃を受け、圧倒的多数の敵軍に包囲され、やむなく和睦して、信長の三男三七郎信孝を養子として迎え、織田の軍門に下った。