松姫が物語文学に興味をもったのはそれからである。佐々木家は六角通りに館を持ち、都の公家とも交流があったので平安時代の物語集も多く伝えられていて、少女のころは部屋に籠もって一人心ゆくままに文学に打ち興じた。
 とりわけ、源氏物語のなかで、六条御息所が、源氏の子を宿した葵の上に嫉妬し、その生霊が、ついには出産を終えて間もない葵の上を呪い殺すくだりには心惹かれるものがあり、今もその筋立ては、はっきりと記憶している。そこに描かれているのは女の業の凄まじさであるが、それとは対照的に六条御息所の姫君が、斎王として精進潔斎の慎ましい日々を送っているという設定が、嫉妬に狂う母親と清浄に気高く生きる娘との対比を際立たせて、執念の恐ろしさ、おぞましさを鮮烈に印象づけていた。
 それに、松姫持参の万葉百人一首歌留多にもある大伯皇女の歌、『うつそみの人にある我や明日よりは二上山を弟背と我れ見む』から、嫁ぎ先の北畠領内の古道が斎王たちの往還の地であったのだと知るにつけても、なんらの取り得もなく見えたその山間の閑散とした地がなぜか暖かく、懐かしく感じられはじめて、この地に愛着を持つようになってしまったのだ。
それで、新しく奥方になった松姫の御台御料所を何処にするかという議案が北畠五家老たちによって出された時、このことが機縁になって、松姫は即座に御台御料所として波多の横山の地を具教に所望、許されてそこに御台屋敷を建てることにしたのである。